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「どうする家康」徳川家康が十男の頼宣を溺愛した納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。ところで、家康は十男の頼宣をことのほか溺愛したというが、その理由について考えてみよう。

 慶長7年(1602)、徳川頼宣は家康の十男として誕生した。のちに、紀伊徳川家の祖となった人物だ。慶長8年(1603)9月に兄の武田信吉が亡くなると、遺領の水戸20万石を継承した。当時、頼宣はまだ2歳だったので、いかに家康の期待が大きかったのかがうかがえる。

 しかし、頼宣は水戸に入ることなく、家康の本拠だった駿府で養育された。そこには、2歳に過ぎなかったという事情もあろう。とはいえ、家康は頼宣の教育に心血を注いでいたという。

 まだ頼宣が幼かったにもかかわらず、家康は馬に乗るよう強要すると、小川を飛び越えるよう命じた。失敗して川に落ちても、家康はそ知らぬふりをしたという。いかに戦国時代の気風が残るとはいえ、いささか度が過ぎるような印象がある。

 慶長14年(1609)になると、頼宣は熊本藩主・加藤清正の娘・八十姫と婚約した。その直後、頼宣は駿府50万石に栄転したのだから、その待遇が破格なのは誰の目にも明らかだった。

 慶長19年(1614)10月に大坂冬の陣が勃発すると、頼宣は初陣することになった。その際、家康は具足始(鎧着初)の儀式を自ら執り行った。家康の頼宣に対する溺愛ぶりがうかがえる。

 翌年の大坂夏の陣に際して、頼宣は先鋒を希望した。しかし、この申し出が却下されたので、家臣が「若いから、また機会がありましょう」と慰めた。すると頼宣は「14歳が2回あるのか」と怒ったので、家康が「その言葉こそ手柄である」と褒めたという。

 家康死後の元和5年(1619)7月、頼宣は和歌山に55万5千石を与えられた。この措置は栄転のように見えるが、2代将軍で兄の秀忠が自らの権威を見せつけるため、行ったともいわれている。

 一見すると、家康は頼宣を溺愛し、厚遇したかのように思えるが、決してそうではないだろう。来るべき泰平の時代に備えて、帝王学を施したに過ぎない。頼宣は、父の期待に応えたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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