Yahoo!ニュース

織田信長に重用された中川重政は、なぜ失脚したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」に登場する織田信長は、配下の者に厳しい人物として知られている。信長は配下の中川重政を追放したというが、その経緯について考えることにしよう。

 中川重政は織田信長の重臣として、初期の政権を支えたことで知られる。重政の父は、織田信次(信長の叔父)の孫とされるが、年代的に合わないので疑わしいという。しかし、重政が織田家の一族であるのは、たしかなようだ。

 永禄年間頃から、重政だけでなく、弟の隼人正、雅楽助は、黒母衣衆として重用された(雅楽助は赤母衣衆)。母衣衆は信長の馬廻衆であり、親衛隊というべきエリート集団だった。信長の上洛後、重政は京都支配の一端を担うことになる。

 エリート街道まっしぐらの重政に悲劇が訪れたのは、元亀3年(1572)8月のことだった。その前年9月、比叡山の焼き討ちが行われ、没収された延暦寺、日吉神社の所領は、明智光秀、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、そして重政に分与された。

 そのうち、重政と勝家に与えられた所領は、非常に入り組んでいて複雑だったらしい。元亀3年頃、重政と勝家は、長命寺(滋賀県近江八幡市)から徴収する中間銭をめぐって、トラブルになったという。これが悲劇のはじまりだったという。

 その後、信長は、近江野洲郡の「ミショウブン(比定地は不明)」を勝家と重政に与えた。勝家も重政も同地を支配すべく、それぞれが2名の代官を派遣した。当然、支配をめぐって、両者は争うことになった。

 重政の弟の隼人正は、兵を出して勝家が遣わした2人の代官を殺害した。この事件の報告を耳にした信長は、重政、隼人正兄弟を改易処分にしたのである。この話は、『武家事紀』という後世の史料に書かれたので、すべてを鵜呑みにするわけにはいかない。

 当時、野洲郡を支配していたのは、佐久間信盛だった。とはいえ、先述した勝家とのトラブルがあったので、両者の対立があったのはあり得る話である。こうして重政は、出世の道を断たれたのである。また、重政の最後の発給文書は元亀3年6月のものであり、事件が同年8月だったのもうなずける。

 その後、重政は信長から許され、茶会に出席した記録がある。とはいえ、重政は2度と政権の中枢に復帰することはなかった。没年も不明である。ただし、子の光重は前田利家の侍女と結婚し、その重臣となった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事