関ヶ原合戦近し!上杉景勝が石田三成と結託し、徳川家康を挟撃しようとしたのは事実か
現在、米沢市上杉博物館で没後四〇〇年記念特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」が開催されている。今回は、上杉景勝と直江兼続が石田三成と結託し、徳川家康を挟撃しようとしたのは事実なのか考えてみよう。
慶長5年(1600)以降、かねて会津に滞在中の上杉景勝に対して、徳川家康は繰り返し上洛を促した。しかし、景勝の家臣・直江兼続は「直江状」を家康に送り、上洛を拒絶したうえに無礼な言葉を浴びせた。これにより、家康は激怒した。
こうして、景勝と家康との対立が決定的になったが、実は石田三成と事前に打ち合わせており、上洛拒否は家康を挟撃するための作戦だったという。その根拠は、『続武者物語』所収の(慶長5年)6月30日付石田三成書状(直江兼続宛)である。
三成の書状によると、挑発された家康が会津征討に向かったのは、景勝と三成の作戦であり、三成は毛利輝元、宇喜多秀家を味方にしていた。そして、景勝に会津における作戦を聞いているのだ。これが事実ならば、景勝が上洛しなかったことが理解できる。
この書状については、『続武者物語』が17世紀後半に成立した単なる逸話集にすぎないので、以前から疑わしいと指摘されてきた。この書状に続けて、(慶長5年)7月14日付三成書状(兼続宛)で、越後口の撹乱作戦が記載されているが、信憑性が低いという。
景勝と三成の結託については、『会津陣物語』にも記載がある。近年の研究では、景勝が家康に負けた責任を兼続だけに転嫁すべく、同書の作者の杉原親清が創作した可能性が高いという。兼続の死で直江家は消滅したので、好都合だったのだ。
さらに重要なのは、三成は真田昌幸を介して景勝と連絡を取っており、直接の交渉ルートを持っていなかったことだ。これでは、先の三成の書状と大きく矛盾する。7月14日の時点で、三成は兼続と連絡を取り合っていなかったと考えられる。
関ヶ原合戦前夜、景勝・兼続と三成が結託していたというのは、質の悪い史料を根拠にしたもので、とても従うことができない。景勝配下の兼続に責任を押し付けようとした、創作と考えられる。それは、同時に単なる歴史ロマンにすぎないのである。