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「どうする家康」井伊直政が徳川家康に感謝することはあれ、暗殺はあり得ない

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
井伊直政像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、井伊直政が徳川家康を暗殺しようとしていた。なぜ、直政は家康を暗殺しようとしたのか、少し考えることにしよう。

 大河ドラマの中では、井伊直政が女装して徳川家康に近づき、暗殺しようとしていた。直政の目論見は見事に失敗するが、もちろん史実ではないだろう。なぜ、直政は家康に恨みを抱いていたのか。

 そもそも井伊氏が本拠を置く遠江は、今川氏が支配していた。井伊氏の本拠は、井伊谷(静岡県浜松市)である。しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徐々に今川氏の凋落がはじまった。

 義元の子・氏真は、家康を相手にして戦ったが、永禄12年(1569)に敗北を喫した。氏真は籠城していた掛川城(静岡県掛川市)を開城して降伏したので、遠江は家康の支配下に収まったのである。問題となるのは、井伊氏が家康から酷い目に遭っていたかである。

 直政の祖父・直満は今川氏に仕えていたが、配下の小野氏との関係が悪かった。天文13年(1544)、小野氏は直満・直義兄弟に謀反の意があると今川義元に讒言し、その言葉を信じた義元は2人を討った。これにより、井伊氏は没落した。

 直満の子・直親は、信濃に逃れていたが、弘治元年(1555)に井伊谷に舞い戻った。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにおいて、井伊氏の家督を継承した義父の直盛が戦死したので、直親が跡を継いだ。戦後の混乱期に勃発したのが「遠州錯乱」である。

 「遠州錯乱」とは、今川氏と家臣との争乱である。このとき、またしても配下の小野氏が氏真に対して、直親に謀反の意ありと讒言した。驚いた直親はすぐに氏真のいる駿府に向かったが、途中で今川氏家臣の朝比奈氏によって討たれた。

 その後、直政は厳しい生活を強いられるが、恨むのならば家康ではなく、今川氏のほうだろう。家康が直政を登用した理由は、もはや二次史料しか残っていないが、その才覚を一目で見抜いたからだという。直政は家康に感謝していたかもしれないが、特に恨む理由はないように思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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