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「どうする家康」織田信長と朝倉義景の関係は、なぜ悪化したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
一乗谷朝倉氏遺跡義景館跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、金ヶ崎退き口の場面が描かれていた。その前提になるのが、織田信長と朝倉義景の関係悪化であるが、なぜそうなったのか考えてみよう。

 永禄10年(1567)11月、足利義昭は朝倉義景を頼り、その本拠である一乗谷(福井市)に移った。義昭はかねて上洛を希望しており、室町幕府の再興を悲願としていた。しかし、義景の腰は重たく、なかなか上洛が果たせないでいた。

 そこにあらわれたのが織田信長である。信長は義昭を迎え入れると、ただちに上洛の途についた。途中で敵対する勢力を討ち果たし、永禄11年(1568)10月に義昭は念願の上洛を果たすと、征夷大将軍の宣下を受けたのである。

 その直後、信長は越前の朝倉義景に上洛を要請した。上洛要請を受けた義景は、家臣を集めて協議したという。しかし、最終的な結論としては、信長の要請に応じることはなかった。なぜ、義景は信長の求めに応じなかったのか、次に従来説を上げておこう。

①短期間の出陣なら問題ないが、長期間に亘った場合は問題が出てくる。

②問題とは留守にしたときの越前支配、出陣中の兵糧、武器の調達である。

③信長の出陣要請に応えると、際限がなくなる可能性があった。

 朝倉氏が信長の支配下に組み込まれるのを嫌がったのは事実だろうが、上記の理由は必ずしも正しいとは思えない。当時、義景は若狭武田家の内紛に付け込んで、当主の武田元明を拘束して一乗谷に連行し、若狭支配を目論んでいた。

 武田氏の家臣は必ずしも義景に味方したわけではなく、かえって信長に助けを求めていた。義景は当然、武田氏家臣の動きを知っていただろうから、安易に信長の要請に応じることができなかった。応じた場合は、政治的な介入が予想されるからだ。

 つまり、義景は信長を脅威と感じ、自身の領土拡大の施策の障害になると考えたのではないだろうか。そこで、浅井氏を味方に引き入れ、信長に対抗しようと決断したと思われる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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