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「どうする家康」金ヶ崎退き口後、織田信長を狙撃した杉谷善住坊とは何者か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鉄砲を撃つ足軽。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、金ヶ崎退き口の場面が描かれていた。その後、杉谷善住坊が岐阜に戻る織田信長を狙撃したが、いかなる人物なのか考えてみよう。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前に攻め込み、朝倉義景を討伐しようとしたが、盟友の浅井長政の裏切りによって退却を余儀なくされた(金ヶ崎退き口)。その際、信長は家臣らの援護もあって、無事に撤退を終えることができた。

 京都に舞い戻った信長は、5月に居城のある岐阜へと向かった。態勢を立て直すためである。しかし、その動きを察知した長政は、鯰江城(滋賀県東近江市)に軍勢を配置した。しかも、市原郷(同)で一揆を起こされたので、信長は大いに弱った。

 すると、日野(滋賀県日野町)に本拠を置く蒲生氏が信長の一行に従い、千草越(鈴鹿山脈を経て伊勢国と近江国を結ぶ山越え)の道案内をした。土地勘のある蒲生氏が案内してくれたので、これで安全と思っていたら大間違いだった。

 杉谷善住坊なる者が六角承禎に依頼され、千草山の中筋で鉄砲を構え、約12~3間(約21.6~23.4m)の距離から信長を狙撃したのである。善住坊は、2発の弾を撃ったという。しかし、天が信長を見守っていたのか、鉄砲玉は信長をかすめるに止まった。

 信長が無事に岐阜に帰還したのは、5月11日のことだった。以上の話は、信長の一代記『信長公記』に書かれている。善住坊は名前からすれば僧侶と考えられるが、その出自は明らかではない。

 忍びの者などの諸説があるが、はっきりしない。滋賀県、三重県には杉谷の地名があるものの、どちらの出身かもわからない。まったくの謎の人物である。

 その後、善住坊は鯰江香竹なる者を頼りにし、高島(滋賀県高島市)に潜伏していた。天正元年(1573)9月、信長配下の磯野員昌が潜んでいた善住坊を発見し、捕縛することに成功した。9月10日、善住坊は岐阜に連行された。

 善住坊は尋問されたが、最終的に信長の思うとおりの処罰が下った。それは、善住坊を首まで土に埋め、ノコギリで首を引くという残酷な刑だった。刑を受けた人物の名前は書かれていないが、フロイスの『日本史』にも刑のことが記されている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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