「どうする家康」織田信長が主家・斯波家の名跡を継がなかった、当たり前の理由
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大河ドラマ「どうする家康」では放映されなかったが、織田信長は主家である斯波家の名跡を継がなかった。その経緯や理由について、考えることにしよう。
上洛後の足利義昭は織田信長を副将軍や管領に任命し、手なずけようとしたが、それは見事に失敗した。以後も義昭は、何かと信長の気を引こうとした。
永禄11年(1568)10月、義昭は信長に礼を述べる感状を送り、信長の武功を「武勇天下第一」と称えた(『信長公記』)。義昭は宛先に「御父織田弾正忠殿」と記し、信長の武功を最大限に評価するとともに父のように慕っていた。
義昭は信長に対して、将軍家が用いる桐紋と二引両の紋を与えた。この点について『信長公記』には、「前代未聞の名誉なことであり、この上もなく喜ばしいことは言葉にすらできない」と書かれており、信長にとって破格の待遇だったことがわかる。
驚くべきは、義昭が信長に管領家の斯波家の名跡を継がせようとし、信長を足利氏の一門に加えようとしたことだ(「古今消息集」)。義昭は事実上滅亡した斯波家の名跡を信長に継がせ、一門衆に加えることで、自分の配下に収めたかったのだろう。
信長は義昭から3通の御内書(将軍の手紙)を送られたが、うち一通は辞退したと伝わる。3通の御内書とは、①信長の武功を称えたもの、②足利家の家紋の使用を許可されたもの、③斯波氏の名跡の継承を許可されたもので、辞退したのは③だった。
信長は「斯波家の名跡の継承は家の名誉ですが、私はもともと陪臣の家の出なので、拝受するのは恐れ多いことでございます」という理由で辞退した(『重編応仁記』)。その後、信長は斯波家の名跡を継承していないので、あながち嘘とはいえないだろう。
信長が辞退した理由は、斯波氏の名跡を継ぐと、将軍配下の副将軍や管領という立場と同じになり、義昭の配下に収まるからだ。信長は義昭の存在を重要視していたが、その秩序に組み込まれるのは避けていた。
義昭は信長を配下に収めたかったが、それは信長の実力を理解していたからだろう。逆に、信長は将軍・義昭という権威を推戴しながらも、現実には自身の軍事力などが強力であることを熟知していた。それゆえに信長は辞退したのである。