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「どうする家康」明智光秀は近江田中城主ではなかったという、不都合な真実

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
冬の琵琶湖。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が織田信長とともに上洛し、足利義昭と面会した。このとき明智光秀も登場していたが、近江田中城主だったのか考えることにしよう。

 光秀が近江田中城(滋賀県高島市安曇川町)に籠城していたと書いているのは、永禄9年(1566)10月20日の奥書を持つ『針薬方』という医薬書である。同書により、光秀が琵琶湖西岸部を支配していたと指摘されているが、事実とみなしてよいのだろうか?

 『針薬方』とは光秀が近江田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉が医薬について光秀から口伝され、米田貞能がそれを近江坂本(滋賀県大津市)で写したものである。実在した義昭の家臣が『針薬方』を書写したので、良質な史料と評価されてきた。

 一方で、『針薬方』の内容は疑問視されている。永禄9年(1566)8月29日、義昭は矢島(滋賀県守山市)を出発し、9月7日に敦賀(福井県敦賀市)へ移動した。同年10月以降、義昭は越前朝倉氏に対して、自身を受け入れてくれるか否かの交渉を開始した。

 そのような非常に緊迫した情勢のなかで、米田貞能が敦賀からわざわざ坂本へ移動し、医薬書を書写する必然性があったのだろうか。これが『針薬方』の史料性の難であり、最大の疑問である。

 また、光秀が近江田中城に籠城していた事実を裏付ける史料、光秀が琵琶湖西部を支配していたことを示す史料は皆無である。そのような事情から、『針薬方』の記述内容は、戦国時代の近江の状況とかけ離れていると指摘されている。

 現在、『針薬方』の記述内容には不審な点が多く、史料性や内容に疑問があると批判されている。仮に、光秀が琵琶湖西岸を支配していたとか、田中城に籠城していたと言うならば、信頼できる一次史料(当時の古文書や日記など)で裏付ける必要があろう。

 結論としては、近年になって「新説」として提起された、光秀と近江にまつわる説は非常に疑わしいといえよう。新しい史料の発見とともに新説が提起されるのは良いことだが、史料の性質が問題である。マスコミなどでは、何の疑問もなく紹介されるので注意が必要だ。

【主要参考文献】

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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