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古田新太さんが演じる「白塗り」の足利義昭は、意外なほど根性があった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が織田信長とともに上洛し、足利義昭と面会した。「白塗り」の足利義昭はいったい何者なのか、詳しく考えることにしよう。

 足利義昭は義晴の次男として、天文6年(1537)に誕生した。13代将軍・義輝の弟である。天文11年(1542)に近衛稙家の猶子となり、興福寺一乗院に入室し覚慶(以下、義昭で統一)と名乗った。そのまま何事もなければ、立派な僧侶になったはずである。

 永禄8年(1565)5月、兄の義輝は敵対する三好三人衆らに襲撃された。義昭は義輝の死を知ると、細川藤孝、一色藤長らわずかな家臣とともに興福寺を脱出した。脱出の際、警護の兵に酒を飲ませ、その隙にまんまと逃げだしたといわれている。

 その途中、義昭は近江国の豪族・和田惟政の居城の和田城(滋賀県甲賀市)に入った。義昭はこの地で将軍となり、室町幕府を再興させることを誓うと、各地の大名に御内書を送り、味方になるよう要請したのである。

 永禄9年(1566)2月、義昭は滞在先の矢島(滋賀県守山市)で還俗し、義秋と名乗った。続けて義昭は、朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官を受けた。その後も義昭は幕府再興に向けて奮闘したが、なかなかうまくいかなかったのが実情である。

 同年9月、義昭は越前の朝倉義景を頼った。義昭は、朝倉氏と加賀一向一揆の和睦を仲介するが、最大の目標の上洛が叶わなかった。永禄11年(1568)2月になると、先に足利義栄が将軍宣下を受けた。その2ヵ月後、義秋から義昭に改名したのである。

 結局、義昭は義景から上洛の支援を得られなかったので、見切りをつけることにした。そこで、義昭が目を付けたのが織田信長である。一説によると、信長を頼るよう勧めたのは、明智光秀だったといわれている。信長は、すぐに義昭の期待に応えた。

 同年7月、義昭は越前を出発し、信長が待つ美濃国立政寺(岐阜市)を訪れた(『信長公記』)。信長はかねての予定どおり、義昭を推戴して上洛することになったのである。上洛の進軍経路は、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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