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改めて復習。徳川家康の遠江侵攻と今川氏真の大名としての滅亡まで

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
掛川城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を落とした。改めて、その経緯を取り上げることにしよう。

 永禄12年(1569)、徳川家康は本格的に掛川城の攻撃を開始した。同年1月17日、家康は天王寺に本陣を置くと、岡崎衆やかつて今川氏真の配下にあった高天神衆らが掛川城を包囲した。

 ところが、家康に与した久野宗能は一族で内紛があり、弟や叔父が氏真方に寝返ろうとした。そこで、宗能は家康の助力を得て、彼らを捕らえて殺すなどしたのである。

 掛川城の周囲では戦いが繰り広げられ、1月23日の掛川天王山の戦いで、今川方は大敗北を喫したという。しかし、軍記物語の記述では、今川方の奮闘ぶりがうかがえ、当初、家康の軍勢との戦いは互角であったと伝える。

 同じ頃、家康は越後の上杉謙信と書状を交わしていた。家康は、遠江の今川方の諸将の多くが服属し、掛川城が間もなく落城すると伝えている。家康のなかには、「楽勝ムード」が漂っていたのかもしれない。ただ、これは謙信の心証を良くするためのもので、決して正しい情報とは言えなかったようだ。

 3月5日、本多忠勝らが掛川城を攻撃するが、戦いは五分五分で、双方に多数の犠牲者が出た。今川方の軍勢は堀江城に拠って抵抗したので、家康は氏真と和睦締結に向けて準備を進めることにした。一方、駿河に侵攻した武田信玄は、決して楽観視できるような状態になかった。

 信玄は駿河に侵攻したものの、北条氏の迅速な対応で窮地に陥っていた。氏政は信玄を封じ込めるため、武田方の小荷駄隊を襲撃するなど、武田氏にプレッシャーを掛けた。

 同年2月、井川や安部の地下人が「反武田」の一揆を起こしたので、信玄は信長を通して足利義昭に依頼し、上杉謙信との和平を結ぼうとした。北条氏との戦いに全力を注ぎ、「北からの脅威」を封じ込めようとしたのだろう。この和平工作は功を奏し、約1年ほど持続したという。

 同年3月、家康は今川配下の小倉勝久に和平締結の話を持ち掛けた。家康は敵対する信玄を一掃し、氏真を再び駿河に戻すことを条件とした。氏真はこれを受け入れ話を進めたが、一方で家康は今川配下の諸将に調略を行っていた。

 今川配下の天野氏、奥山氏そして堀江城に籠もっている大沢氏、中安氏らに対しても、本領安堵を約束した。こうして懐柔された彼らは、必然的に家康に降った。もはや今川氏は、死に体だった。

 その後、家康と氏真の和睦交渉は滞りなく進み、双方で起請文が交換された。5月6日、北条氏康の兵が掛川城へ来ると、氏真は開城して同城をあとにした。

 氏真は掛塚湊(磐田市)、蒲原(静岡市清水区)、沼津を経て大平城に入城を果たした。そして、氏真は国王丸(氏政の子。のちの氏直)を養子として迎えたのである。こうして今川氏は生き永らえたが、戦国大名としては滅亡したといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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