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徳川家康の遠江侵攻!徳川四天王のひとり井伊直政が家康に従った背景

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
井伊直政公出世の地。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を落とした。その結果、今川氏配下の小野但馬に制圧されていた井伊谷の秩序が回復したが、その経緯を取り上げることにしよう。

 徳川家康の遠江侵攻に協力したのが、井伊谷三人衆(菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時)である。その結果、井伊谷を支配していた今川氏配下の小野但馬は逃亡し、井伊谷(静岡県浜松市北区)の秩序が回復した。

 『改正三河後風土記』によると、井伊谷三人衆は新たに遠江に所領を与えられ、のちに井伊直政の配下に付けられたので、井伊谷三人衆と称せられたとある。家康の配慮により、井伊谷が争乱状態から解放され、平和を取り戻したのは事実のようだ。

 井伊谷三人衆の活躍がなければ、家康の遠江攻略はうまくいかなかったので、彼らには恩賞が与えられた。永禄11年(1568)12月12日、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時に起請文を与えた(「鈴木重信氏所蔵文書」)。

 まったくの同日付で、家康は井伊谷三人衆に対して、所領を与えた(「鈴木重信氏所蔵文書」)。給付された多くの所領は、豊田郡、長下郡、敷智郡、引佐郡といった遠江国西部に集中している。

 井伊谷三人衆を家康に紹介した菅沼定盈へも、まったくの同日付で家康から恩賞が給付された(「菅沼文書」)。それは、所領の安堵に加えて、段銭・棟別十二座諸役の計1500貫文も与えられた。そして、先々も家康のために奔走するよう要請した。

 同年12月13日、菅沼定盈と今泉延俊は連署して、近藤康用、鈴木重時に起請文を送った(「鈴木重清氏所蔵文書」)。内容は井伊谷おける戦功に対して、起請文形式で恩賞を給付したものである。

 同時に2人は、先述した家康の所領給付が偽りでないことを保証している。宛先に菅沼忠久の名前がないのは、同族だったからであろうか。井伊谷が秩序を回復したのは間違いないが、たしかな史料では細かな状況を確認できず、井伊氏の動向も不明な点が多い。

 家康による遠江侵攻は、単に今川氏の大名としての滅亡だけではなく、井伊谷に平和をもたらした。徳川四天王のひとり井伊直政は、井伊谷の出身であるといわれている。このことがきっかけとなり、家康に仕えることになったのだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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