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実は徳川家康も大苦戦だった。今川氏真との掛川城における攻防戦

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
掛川城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を攻撃していた。その際、家康は大苦戦したといわれているが、その点について考えることにしよう。

 今川氏真は武田、徳川の両軍から攻められると、本拠の駿府を捨てて、掛川城(静岡県掛川市)に逃げ込んだ。徳川家康による掛川城の攻撃が本格化したのは、永禄12年(1569)1月のことである。以下、戦いの経過を確認することにしよう。

 家康は掛川城の周囲に砦を築くと、自らは天王山に着陣した。加えて、高天神衆の小笠原氏、久野氏、岡崎衆が城を攻囲した。なお、小笠原氏、久野氏は今川氏の配下にあったが、徳川方に寝返ったのである。

 当時、寝返った者は元の主君の状況をよく知っていたので、先鋒を務めるのが一種の軍事慣行となっていた。彼らが寝返ったとはいえ、決して1枚岩ではなかった。久野氏は一族から裏切り者が出たので、家康に密告して反対勢力を一掃したほどである。

 今川、徳川の戦いは熾烈を極めた。当初、徳川方の楽勝かと思われたが、今川方はよく敵の攻撃を防いだ。氏真は「ダメ大名」と評価されているが、意外にも家中をまとめて激しく抵抗していたのだ。

 掛川城での攻防の間、家康は越後の上杉謙信に連絡をしていた。家康は遠江国に侵攻したこと、今川配下の部将の多くが服属したことを伝えた。そして、間もなく掛川城が落ちるであろうと述べている。むろん、先述のとおり、必ずしも家康は優勢ではなかった。

 同年3月、家康は本多忠勝に命じて、掛川城に猛攻を仕掛けた。しかし、互いに多数の戦死者を出しただけで、掛川城は容易に落城しなかった。それどころか、氏真は大沢氏が籠る堀江城(静岡県浜松市)は掛川城と連携し、さらに抵抗が激しくなった。

 このような状況にあっては、戦いが長引くだけで、互いにメリットはなかった。兵糧だけでなく、将兵の消耗も懸念された。そこで、家康は氏真と和睦すべく、検討することになったのである。

 なお、ドラマの中では、最後に家康と氏真の一騎打ちがあったが、もちろんフィクションだろう。家康が氏真を兄と慕うセリフもあったが、こちらもちょっと考えにくいところである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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