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武田信玄もびっくり!今川氏真の支援に駆け付けた北条勢の怒涛の猛反撃

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川氏の居城の小田原城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、武田信玄が駿河に攻め込んで来た。その際、今川氏真を救ったのが北条氏だった。その辺りの事情について、考えることにしよう。

 永禄10年(1567)頃から、今川、北条、武田の三国同盟は崩れ出し、今川氏真は越後の上杉謙信に連絡するようになった。このことに武田信玄は強い疑念を抱き、今川、武田間の関係が悪化した。

 永禄11年(1568)11月、武田信玄は駿河に侵攻すべく、甲府(山梨県甲府市)を発つと、翌月には今川氏の本拠の駿府を占拠した。その結果、今川氏真は家臣らにも裏切られたので、這う這うの体で逃げ出すよりほかはなかった。

 その際、氏真の窮地を救ったのは、妻・早川殿の父・北条氏康だった。氏康は氏真の不甲斐なさを非難しつつも、立ち上がったのである。しかも、氏康の対応は、実に迅速なものだった。

 同年12月12日、氏政(氏康の子)が小田原(神奈川県小田原市)を発つと、たちまち沼津(静岡県沼津市)まで進軍した。翌13日、北条勢は興津(静岡市清水区)で武田軍と交戦し、薩埵峠(同)を制圧したのである。

 蒲原城(静岡市清水区)は今川方が守っていたが、北条幻庵の子・氏信が入城した。北条氏は今川勢を救うため、蒲原城内の今川氏の家臣らを指揮下に置くことで、武田勢の侵攻を食い止めようとしたのである。

 武田勢は北条勢に対抗すべく、興津城(静岡市清水区)を改修したが、その後は想定外のことが次々と起こった。駿河西部の花沢城(静岡県焼津市)、藤枝城(同藤枝市)の今川勢は、徹底して武田勢に抗戦を挑んだのだ。

 今川氏家臣の富士信忠は、富士大宮城(静岡県富士宮市)に籠城すると、今川勢の加勢にやって来た北条氏と協力し、武田勢に徹底して戦う姿勢を見せた。富士大宮城は甲斐への通行路だったので、武田勢としては非常に困ったことになった。

 武田勢は一気呵成に駿府を占領したものの、その後は今川勢や加勢にやって来た北条勢の抵抗によって、思いがけず動きが止まってしまった。北条勢は駿河東部へも侵攻し、同時に越後の上杉氏に窮状を訴え、支援を依頼したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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