今川氏真があっけなく敗北。武田信玄による駿河侵攻作戦の真相
大河ドラマ「どうする家康」では、とうとう武田信玄が駿河に攻め込んだ。今川氏真はあっけなく敗北したが、その経緯について考えることにしよう。
永禄10年(1567)頃から、今川、北条、武田の三国同盟は綻びを見せ、今川氏真は越後の上杉謙信と通じるようになった。こちらを参照。このことに武田信玄は強い不快感を示し、今川、武田間の緊張が高まった。
この頃、氏真は甲斐への塩留め(塩を送らないこと)を実行し、翌年の永禄11年(1568)には領国間での人の往来や交易が途絶えたという。両者の関係は、すっかり冷え切っていたのである
同年11月、信玄は駿河に攻め込むべく、甲府(山梨県甲府市)を発った。信玄はあらかじめ今川家の家臣に調略を行ったので、瀬名、朝比奈、三浦、葛山の諸氏が武田方に寝返ったという。それゆえ、信玄は戦いを有利に進めることになった。
武田氏に寝返った今川家旧臣は、駿河衆と呼ばれた。中でも朝比奈右兵衛太夫は、信玄から駿河守と偏諱を授けられ、朝比奈駿河守信置と名乗った。信置は駿河先方衆として、今川氏を討つべく先頭に立ったのだ。
信玄が駿河に侵攻したので、氏真は自ら清見寺(静岡市清水区)に出陣し、配下の庵原氏を薩埵峠(同)に急行させた。しかし、先述のとおり、今川氏の家臣が相次いで離反したので、氏真は本拠の駿府に戻らざるを得なくなった。
氏真は駿府に引き返したものの、武田勢に対する十分な防御態勢を築くことができなかった。そのような事情もあり、武田勢は大した手間もなく、あっという間に駿府の占拠に成功したのである。氏真は、駿府を捨てざるを得なくなった。
氏真は無念の思いを抱きながら、配下の朝比奈泰朝が守る掛川城に逃げ込んだ。その逃亡劇は、悲惨なものだった。氏真の妻・早川殿(北条氏康の娘)は、乗物も準備できないまま駿府をあとにしたという。
この話を聞いた氏康は、氏真が乗物すら準備できなかったことに激昂したという。氏真は武田勢に敗戦した結果、北条氏にもら見放されることになった。このあと氏真は、坂道を転げ落ちるように転落したのである。