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本多正信が軍師ではなかった!という「不都合な真実」

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本多正信を演じる松山ケンイチさん。(写真:Motoo Naka/アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では三河一向一揆が勃発し、本多正信が一揆方の軍師を務めていた。今回は、戦国時代に軍師が存在したのかについて、考えることにしよう。

 辞書類によれば、軍師とは「大将の配下にあって、戦陣で計略、作戦を考えめぐらす人」を意味する。彼らは単に戦場で計略や作戦をめぐらすだけでなく、ときに外交にも携わるなど、多彩な能力を発揮したという。

 戦国時代には、武田氏の軍師・山本勘介(助)、今川氏の軍師・太原雪斎、上杉氏の軍師・宇佐美定行など、著名な軍師が数多く存在した。しかし、彼らを軍師と称するのは早計で、その実態をより深く探る必要がある。

 日本に兵法が伝わったのは奈良時代のことで、『日本書紀』には兵法を駆使したと思しき人々が登場する。留学生として唐に渡った吉備真備(695~775)は、儒学・天文学・兵学を修め帰国した。

 真備は城を築くなど、わが国の「軍師第1号」といわれている。真備は兵学にも通じていたが、軍師としての活動が明らかではない以上、軍師と認めるわけにはいかないだろう。

 のちに、中国から伝わった『孫子』、『呉子』、『六韜』、『三略』などの兵法書を参考にして、わが国でも多くの兵法書が執筆された。南北朝期から室町期にかけて執筆された『兵法秘術一巻書』『訓閲集』などは、兵法書の代表といえるだろう。

 ところで、戦国大名は出陣の日をやみくもに決めていたのではなく、僧侶や易者や山伏に任せることもあった。僧侶の場合は、足利学校の卒業生も少なくなく、合戦の日取りなどは占いの類に頼っていた。戦国大名が寺社に必勝祈願をしたのは、そのあらわれである。

 実は、軍師という言葉は近世に生まれたもので、それより以前の戦国時代にはなかった。私たちが軍師であると信じてきた武将らは、後世になって『三国志演義』などに登場する武将になぞらえて、そう呼ばれただけである。

 軍師と称された人の中には、山本勘介(助)のように「キツツキ戦法」などを駆使したり、優れた作戦を指示した者もいたが、それらの多くは後世に成った二次史料(軍記物語など)に書かれたもので、にわかに信が置けない。

 戦国大名の抱える家臣は多士済々で、軍事や外交に優れた武将がいた。そういう人々が、のちに軍師と称されたに過ぎない。軍師という言葉は、厳密な定義が困難な曖昧なものなのである。本多正信の場合も、軍師とはいえないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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