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明智光秀は織田信長にハゲ頭を叩かれたので、ブチ切れて本能寺の変を起こしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 東映創立70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、明智光秀が織田信長にハゲ頭を叩かれた事件について考えてみよう。

 明智光秀はかつて稲葉家から斎藤利三を引き抜いたが、さらに家臣・那波直治を引き抜こうとした(『稲葉家譜』)。天正10年(1582)5月、那波直治が稲葉家を去って光秀に仕えた。

 稲葉一鉄は光秀に2度も家臣を引き抜かれたので激怒し、光秀と織田信長に直治の返還を訴えた。訴えを聞いた信長は、光秀に稲葉家に直治の返還を、そして利三には自害を命じたという。

 その後、信長配下の猪子高就のとりなしにより、利三は自害を免れた。しかし、信長は光秀が法を破ったことに激怒し、光秀を呼び出して譴責すると、2・3度頭を叩いた。光秀は頭の薄かったので、常に付髪(カツラのようなもの)をしていたが、それが打ち落とされたのだ。

 光秀は恥をかかされたので、信長の仕打ちを深く恨んだ。本能寺の変の原因は、この事件にあるとの説がある。結局、直治は美濃に帰って稲葉家に仕え、堀秀政は稲葉貞通(一鉄)に書状を送ったというのである。

 『稲葉家譜』には、直治の稲葉家への帰参を信長が裁定した書状を載せる。家臣の引き抜き禁止は、戦国社会における一般的な決まりだった。旧主の許可を取らないと、新主に仕えることができないルールがあったのだ。

 光秀の付髪事件については、『稲葉家譜』に収録された堀秀政の書状写が信頼できるのだから、史実とみなしてよいとの見解がある。しかし、地の文については、編纂および執筆者の意図が反映されていることもあり、史実が正確に反映されていない可能性がある。

 この場合、書状は不審な点がないので問題ないと思われるが、信長による付髪の落下事件はたしかな史料で確認できず、光秀を貶める意図があった可能性を考慮する必要があろう。話が荒唐無稽で、おもしろおかしい点も注意すべきである

 信長が光秀を折檻した話は多くの編纂物に書かれており、『稲葉家譜』の付髪落下事件もその流れを汲む、荒唐無稽なエピソードの一つにすぎないだろう。とても信用できない。『稲葉家譜』は、光秀の付髪の一件が「本能寺の変の根本の原因である」と書くが、余計に不信感を際立たせる。

 編纂物に文書が掲載されているということは、その編纂物の地の文の正しさを証明することにはならない。家譜などの地の文は一次史料に基づき、現代歴史学のように公正・公平かつ科学的な態度で執筆されているとは限らないので、安易に信用することを差し控えるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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