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【深掘り「どうする家康」】松平元康が瀬名らの奪還に成功したのは、忍者の活躍によるものだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、松平元康が瀬名らの奪還に成功した。元康はどうやって奪還に成功したのか、その点を深掘りすることにしよう。

 永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したので、松平元康は岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還し、織田信長と同盟を結んだ。そして、義元の子の氏真と戦ったのである。しかし、元康の妻・瀬名や子供たちは、駿府で捕らわれの身になっていた。

 永禄5年(1562)1月、ときの将軍・足利義輝は、今川氏真に御内書(書状)を送った。その内容は、元康との和睦を勧めるものだった。元康宛の御内書は残っていないが、同じ趣旨のもの(氏真との和睦を勧める内容)が送られたと推測される。

 義輝の和睦工作は、かなり大掛かりなものだった。使者には三条西実枝らが起用され、北条氏康や武田信玄にも協力を求めた。義輝の並々ならぬ意欲をうかがうことができよう。

 こうした状況下において、同年2月、元康は鵜殿長照の居城・上之郷城(愛知県蒲郡市)を攻撃した。元康は忍びの者を起用するなどし、長照の軍勢を混乱に陥れたという。結果、長照は元康の配下の伴与七郎に討たれ、戦死したのである。

 元康が起用した忍びの者とは、多羅尾光俊、伴中書兄弟といった甲賀衆だった。甲賀衆は上之郷城に火を放ち、その隙に乗じて長照を討ったのである。戦後、伴与七郎は元康から感状を与えられた。

 この戦いでの最大の収穫は、長照の子の氏長・氏次兄弟を捕縛したことだった。長照の母は義元の妹だったので(異説あり)、氏真としては氏長・氏次兄弟を見捨てるわけにはいかなかった。

 そこで、元康と氏真が協議した結果、瀬名らと氏長・氏次兄弟を交換することになったのである。こうして人質の交換は無事に終わり、瀬名らは晴れて元康が待つ岡崎城に帰還することになったのである。

 人質の交換を終えた元康は、心置きなく氏真と戦うことができるようになった。以後、氏真は徐々に勢力を後退させ、最後は元康の軍門に降ることになる。その点は、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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