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【深掘り「どうする家康」】織田信長は3度の飯よりも相撲が大好きだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
浮世絵 相撲取り。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が再会した松平元康と相撲をとっていた。信長が相撲好きだった点について、深掘りすることにしよう。

 『古事記』、『日本書紀』によると、相撲の起源は出雲の野見宿禰と當麻の當麻蹶速の対戦にあったことがわかる。この勝負で野見宿禰が勝利し、當麻蹶速の所領が与えられることになった。

 そもそも相撲は神事の一つであり、江戸時代の勧進相撲(神社仏閣の建築費の寄付を募る目的)から大きな発展を見せた。これが現在の大相撲へと繋がっていったのである。

 織田信長は相撲が大好きだったので、たびたび安土城(滋賀県近江八幡市)近くの常楽寺で、相撲の大会を催していた。各地から力自慢を集めて、1年に何度も開催されたのである。その事実は、フロイスの『日本史』にも書かれている。

 むろん、勝者への褒美はなかなか豪勢だった。信長は優勝した者への褒美として、家臣として召し抱えることもあった。したがって、出場者は単なる娯楽としてではなく、死に物狂い、かつ真剣だったのである。ほかにも太刀、所領などの恩賞も与えられた。

 天正7年(1579)8月、2日間にわたり、信長の見守る中で相撲大会が開催された。中でも注目されたのは、当時、18歳の青年だった伴正林である。正林は7・8人と対戦して、連戦連勝という偉業を達成した。

 大いに喜んだ信長は、自らの家臣として正林を召し抱えたのである。しかし、その3年後、本能寺が変が勃発し、信長は無念のうちに自害して果てた。実は、現場に居合わせた正林も、襲撃してきた明智光秀の軍勢と戦い、戦死したのである。

 ところで、信長と相撲の記事は、『信長公記』の元亀元年(1570)から天正9年(1581)の間に見られ、それ以前には確認することができない。信長は上洛以降、相撲に関心を持ったといわれている。

 とはいえ、当時にあって相撲は娯楽でもあったので、史料に書かれていないから、それ以前は関心がなかったとはいえないだろう。尾張時代の信長も、少しは相撲に興味があったのかもしれない。

 むろん、信長が再会した元康と相撲をとったという記録はないが、取らなかったことを証明するのは不可能なのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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