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【深掘り「どうする家康」】今川義元は、織田信長の正面攻撃により桶狭間で敗れたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元。(提供:イメージマート)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は今川義元が織田信長の正面攻撃により桶狭間で敗れたのかについて、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)5月19日、織田信長は今川義元を桶狭間の戦いで奇襲戦により破ったといわれてきたが、今では否定的な見解が多数を占めている。最近の研究では太田牛一が執筆した『信長公記』を根拠史料として、正面攻撃説が唱えられた。

 5月19日の正午頃、千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。

 今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に攻め込んだ。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の毛利新介に討ち取られた。これが「正面攻撃説」の概要である。

 現在では、質の劣る小瀬甫庵の『信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、二次史料ながらも良質な太田牛一の『信長公記』が記録する「正面攻撃説」が支持されている。

 『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。

 そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。それゆえに不正確さが生じるのは仕方がないのだ。

 ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪)に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。

 かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。

 とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とあまりにかけ離れているので、そのまま鵜呑みにできないと指摘されている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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