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【先取り「どうする家康」】徳川家康の先祖である松平泰親、信光とは、いかなる人物なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(写真:イメージマート)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平氏の先祖である松平泰親、信光を取り上げることにしたい。

 松平氏の始祖は松平親氏であるが、その死後、松平家を継いだのが弟の泰親である。泰親の生年にも謎が多く、貞治3年(1364)から文安元年(1444)までの諸説がある。

 没年も永和2年(1376)から文明4年(1472)まで、さまざまな説がある。名前についても、親氏と流浪中には「祐阿弥」と号したと記すほか、松平太郎左衛門、世良田三河守、徳川次郎三郎と称したなどの説がある。

 泰親は松平郷(愛知県豊田市)から三河国岩津村(同岡崎市)に侵攻し、岩津城を築いた。泰親は岩津に移ると、松平郷の支配を子の信広に任せた。その後、泰親は岡崎(同)に進出し、岩津城を信光(親氏の子)に譲った。

 松平家の初代・親氏、二代・泰親に関しては、たしかな史料で確認できないことが多く、それは松平家の「伝説時代」といえよう。信光の時代に至って、松平家の歴史は徐々に明らかになっていく。

 泰親の死後、家督を継いだのは親氏の子・信光である。信光の生年は応永11年(1404)といわれているが、こちらも正確か否か疑問視されている。

 先述のとおり、信光は泰親から岩津城を任されていた。とはいいながらも、信光に関する史料も乏しく、たしかな史料に登場するのは寛正6年(1465)を待たねばならない。

 同年、三河の名族・吉良義藤が没落し、その配下の丸山氏らが三河国井口村(愛知県岡崎市)に砦を築き、京都に運送中の官物などを奪うなどの狼藉を行った。

 ときの室町幕府6代将軍・足利義教は三河の土豪の牧野氏らに討伐を命じたが、失敗に終わった。そこで、同年6月、義教は信光らに討伐を命じ、信光は見事に期待に応えたのである(『親元日記』)。

 信光は岩津城を本拠とし、徐々に三河国額田郡、加茂郡に勢力を拡大していった。松平郷にほど近い大給、保久などを支配下に治め、他家と婚姻関係を結んで同盟関係を築いた。「十四松平」あるいは「十八松平」は、このときから徐々に形成されたものだ。

 文明年間に信光は安城城(愛知県安城市)を奪取し、その威勢は西三河の3分の1に及んだといわれているが、長享2年(1488)7月に亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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