【その後の「鎌倉殿の13人」】約140年も存続した鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのだろうか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。約140年も存続した鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか、その理由について詳しく掘り下げてみよう。
元弘3年/正慶2年(1333)5月22日、新田義貞の率いる軍勢が鎌倉に攻め込むと、北条高時は東勝寺で自害して果てた。子の邦時も1週間後に処刑された。これにより、鎌倉幕府は滅亡したのである。
幕府崩壊の予兆は、高時の父・貞時の頃から顕在化していた。2度にわたる元寇(文永の役、弘安の役)により、御家人の生活は窮乏化していた。さらに弘安8年(1285)の霜月騒動、正応6年(1293)の平禅門の乱によって、幕政も不安定になっていた。
晩年の貞時は、連日のように酒宴を催すなど、すっかり生活が乱れていた。これでは政治が安定するわけがない。貞時は乱れ切った生活も祟って、応長元年(1311)10月に亡くなった。
その後、後醍醐天皇は「天皇親政」を掲げて、2度も幕府に反旗を翻した。それが元亨4年(1324)の正中の変と元弘元年(1331)の元弘の変である。しかし、後醍醐の討幕は失敗に終わり、隠岐島に流罪となったのである。
この頃から各地で幕府への不満が高まり、討幕の機運が盛り上がっていった。元弘3年/正慶2年(1333)、討幕の兵を挙げた新田義貞の軍勢は、わずか150に過ぎなかった。しかし、行軍の途中で御家人の軍勢が加わり、大変な数になった。
その結果、冒頭で記したとおり、義貞は鎌倉に攻め込み、幕府を滅ぼすことに成功したのである。なぜ、幕府が滅亡にしたのかといえば、北条高時の悪政に求められることが多い。高時は、連日のように闘犬、田楽に没頭し、政治を顧みなかったという。
ところが、高時の悪政は二次史料に書かれたもので、にわかに信用できない。ことさら高時を貶めようとした意図が見え隠れする。幕府が滅亡した理由は政治的な不安定さ、後醍醐の討幕の動き、気候変動に対応できなかったこと、貨幣経済の浸透、悪党の跳梁などがあげられる。
とはいえ、決定的な理由というのは、未だにわからない、一気に討幕の機運が盛り上がると、あれよあれよという間に討幕勢力が膨れ上がったというのが実情らしい。その動きは京都や九州でも連動して起こり、幕府の機関である六波羅探題、鎮西探題も滅亡したのだ。