織田信長は天皇より上であることを天下に知らしめるため、馬揃えを挙行したのか
海外の諸国の中には、権力者が軍事パレードを挙行し、自らの権勢を誇示することがある。かつて織田信長は正親町天皇を招いて馬揃えを開催し、自身の権力を誇示しようとしたと言われたこともあったが、それはどう考えるべきなのだろうか。
天正9年(1581)2月、織田信長は正親町天皇を招き、京都の内裏東で馬揃えを行った。馬揃えとは、柴田勝家、丹羽長秀ら信長配下の武将が総動員され、馬に乗って行進したものである。馬揃えを実見した正親町天皇は、大いに喜んだと伝わっている(『信長公記』)。
そもそも馬揃えは、正親町天皇が希望して実現したものだが、その意味については諸説ある。一つは、当時の信長は正親町天皇や公家と対立していたので、朝廷を威圧する目的があったという説である。
もう一つは、当時の天下を意味する京都で催されたので、信長が京都の平和を回復し、天下を掌握したことを大名に知らしめる目的があったという説である。
信長が朝廷と対立していた理由の一つとして、正親町天皇に譲位を迫ったことが挙げられている。しかし、当時の天皇は、早く退位して上皇になるのがスタンダードだったので、正親町天皇は大いに感激していた。信長は御所の修繕なども行っており、朝廷と確執があったとは思えない。
最近では、信長がヴァリニャーノを招待しており、その意識にはポルトガルを強く意識していたとの説もある。また、中国の明すらも意識していたという。もはや、天皇は眼中になかったようにも思える。
正親町天皇は、金紗を身にまとい、ビロードの椅子に座った信長を見て、「唐国でもこのようなことはないでしょう」と述べたという(『立入左京亮入道隆佐記』)。また、『信長公記』には、京都の群衆が「我が国はいうまでもなく、唐土(中国)、高麗でもこのようなことはない」と囃し立てたという。
こうしたことから、信長の意識はポルトガル、中国を視野に入れ、自らがその上に君臨する姿を思い描いという説もある。ただし、正親町天皇にしろ、京都の群衆にしろ、それは単なる感想にすぎない。信長の意識を探る材料としては、かなり厳しいものがある。
いずれにしても、信長は正親町天皇の要望を受けたので、馬揃えを実施し喜ばれた。たしかに、馬揃えを見た人は驚いたであろうが、そこに過剰なまでの意味を持たせることはないだろう。