【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝は鎌倉を捨てて、京都に移ろうと考えていたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝が鎌倉から京都へ移る希望を口にしていた。そういう可能性があったのか否か、詳しく掘り下げてみよう。
■文化人だった源実朝
3代将軍の源実朝といえば、いささか線が細く、武人としての印象があまりに乏しい。政治にも積極的ではなかった印象を受けるが、その点は最近の研究によって改められつつある。
実朝は歌人として知られ、国文学者による研究も数多い。実朝の代表的な歌集が『金槐和歌集』である。実朝の和歌は非常に独創的であるとされ、高く評価されている。なお、金槐の「金」は 鎌の偏で、「槐」は 槐門(大臣の唐名)を意味する。
実朝は、後鳥羽上皇が編纂を命じた勅撰和歌集『新古今和歌集』を京都から取り寄せたというから、かなり熱心だった。和歌に優れた武人はほかにもいたが、実朝は群を抜いた別格の存在だったといえる。
■京都に移るメリットはあるのか
ドラマの中では、実朝が鎌倉から京都に移ることを希望し、六波羅に邸宅を構えたらいいとまで言っていた。後鳥羽の配慮により右大臣まで出世し、和歌を愛した実朝のことだから、京都に憧れるのは無理からぬところである。
しかし、実朝が京都に移るメリットがあるのかといえば、決して「ある」とはいえないだろう。そもそも実朝は東国の御家人から支持されることにより、将軍の座に就いた。京都に行っては元も子もないし、御家人から支持を得られなくなるだろう。
実朝が京都に行って、いったい何をするのかという問題もある。かつて平家は一族で高位高官を独占し、朝廷を差し置いて権力を掌中に収めた。実朝は、そういうことを考えていたのだろうか。実現は難しいだろう。
■まとめ
実朝は京都行きを口にしたが、むろん史実としては認められない。あくまでドラマの中の話である。京都行きを言わしめたのは、実朝の現実逃避であろうか。
しかし、近年の研究によると、実朝は決してひ弱、軟弱な青年ではなく、実際は政治にも積極的に取り組んだ。そういう実朝の側面を見たいと思うのは、私だけなのだろうか。