【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時と対峙した源仲章には、野望があったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時と源仲章が対峙していた。仲章には野望があったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■源仲章とは
ドラマの中の源仲章は、「人の上に立ちたい」と野望を口にしていたが、いったいどのような人物だったのだろうか。
仲章は、後白河法皇の院近臣を務めた光遠の子である(生年不詳)。仲章は鎌倉幕府の在京御家人を務めつつ、後鳥羽上皇の近習として兄弟の仲国・仲兼らと共に仕えていた。
建仁3年(1203)、源実朝が兄の頼家に代わって将軍の座に就くと、仲章は鎌倉で実朝の侍読(じどく:貴人に仕えて学問を教授する学者)を担当した。仲章にとっては、願いもしない栄転だった。
当時の鎌倉には学識の高い者がおらず、仲章が京都から招聘されたのはないかと指摘されている。歌人の藤原定家は、仲章が無名であったものの、その学識の高さを認めていたという。隠れた人材だったのだ。
■仲章の台頭
仲章は後鳥羽からの信任が厚く、同時に幕府の御家人だったことが有利に作用した。仲章は御所近くに屋敷を構え、相模権守、弾正大弼、大学頭を歴任するなど、大出世を遂げたのである。
建保4年(1216)、仲章は政所別当に任じられ、その2年後には、順徳天皇の侍読を兼ねた。同時に従四位下・文章博士に任じられ、昇殿を許されたのである。これは、異例ともいえる大出世だった。
仲章はその経歴から、二重スパイだったといわれているが、確証があるわけではない。仲章は実朝と後鳥羽を結び付ける危険な存在だったので、鶴岡八幡宮で実朝もろとも殺されたというのだが、この点は慎重な検討を要しよう。
■まとめ
仲章は「人の上に立ちたい」と述べていたが、現実的に可能だったのだろうか。仲章はその深い学識をもって幕府に登用されたが、東国の御家人から支持されたか否かは別の問題である。
仮に、仲章が「人の上に立ちたい」と希望しても、東国に何ら後ろ盾のない仲章が実権を握ることができるとは思えない。したがって、北条義時がそこまで仲章を恐れたのか、極めて疑問である。