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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝の後継者が望めない中、北条政子が模索した親王将軍とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条政子を演じる小池栄子さん。(写真:西村尚己/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝の後継者が望めない中、幕府が親王将軍を模索していた。その点について、詳しく掘り下げてみよう。

■北条政子の熊野詣と上洛

 源実朝には、後継者たる男子が誕生しなかった。それは幕府にとって、源家の存続のみならず、政権の永続性に影響をもたらす由々しき事態だった。頭を悩ませたのは、実朝の母・北条政子も同じである。

 建保6年(1218)、政子は時房とともに熊野詣に出掛けた。とはいえ、これは単に熊野詣だけが目的ではなかった。そのまま京都に入り、朝廷とある折衝に臨むためだった。

 政子の熊野詣については、幕府の政所で審議が執り行われていた。政所でわざわざ審議された理由は、後述するとおり、後鳥羽上皇の皇子を親王将軍として迎えるためだったのである。

■親王将軍の構想

 上洛した政子は、卿二位兼子と面会し、六条宮雅成親王あるいは冷泉宮頼仁のどちらかの親王を実朝の後継者として、幕府に迎えることについて了承を得ることができた。いわゆる親王将軍である。

 実朝は自身に子ができないことを自覚しており、あとは昇叙により家名を高めたいと考えていた。最終的に右大臣にまで出世したのは、実朝自身の意向があったゆえであろう。「官打ち」などは、後付けの迷信である。

 同時に、親王将軍を迎えることも、実朝自身の意向だったと指摘されている。幕府が永続性を保つためには、権威ある朝廷の後ろ盾が必要だったと考えたのだろう。

■まとめ

 実朝は朝廷の権威を幕府に取り込むと同時に、自身は後見人としての立場を維持し、東国政権の確固たる地位に永続性を持たせようと考えた。親王将軍を迎えるのは、そのためにどうしても必要だったのだ。

 とはいえ、朝廷との関係を利用しようとしたのは、何も政子や実朝の専売特許ではない。源頼朝もかつては大姫の入内を画策し、子の頼家の代わりに親王を迎えようとしたといわれている。つまり、突拍子もないアイデアではなかったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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