【深掘り「鎌倉殿の13人」】牧氏事件が勃発!いったい北条時政は何を望んだのだろうか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件が勃発したが、いったい北条時政は何を望んだのだろうか。その点について、改めて詳しく掘り下げてみよう。
■権勢を掌握した北条時政
北条氏は伊豆の小豪族と言われてきたが、今や邸宅の発掘調査が行われ、そうではなかったとも指摘されている。源頼朝が頼りにしたほどなのだから、過小評価をしてはならないだろう。
北条時政の力の源泉は、頼朝の舅という点にあった。頼朝も大いに頼りにしていた。源家以外で初めて時政が受領になったのは、その証であるといえよう。京都守護も務めた。
時政の運命を変えたのは、頼朝の死に他ならなかった。しかし、頼朝には頼家という後継者がいたので、問題はなかったように思えたが、頼家の乳父を務める比企能員が政敵となった。
■討ち続く政変
正治元年(1199)10月、梶原景時の変が勃発した。ことの発端は、景時による讒言である。御家人らもさすがに業を煮やし、景時の弾劾に動いた。結果、景時は鎌倉を追放され、ついに討伐された。
翌年の比企能員の変では、頼家の危篤を受けて後継者を選ぶ際、時政は能員と対立し、これを討った。その後、新将軍に実朝を擁立し、自らは政所別当となり、全面的に実朝をバックアップすることになった。
さらに元久元年(1204)に畠山重忠の乱が勃発したが、その原因は時政が武蔵支配を目論んだからだった。結局、重忠は討たれてしまったが、重忠の謀反の計画はでっち上げだったといわれている。
そもそも頼朝の死後、13人の合議により、さまざまな案件を処理することになっていた。しかし、時政の政治は強権的なもので、御家人の反発を受けた。時政の訴訟の指揮によって、地頭職の停廃が相次いだのは、その証左といえるだろう。
■まとめ
いったい時政は何を望んだのだろうか。時政は実朝の後ろ盾となり、全権を掌握することが目的だったのだろう。時政は高齢だったので、その後は子の政子・義時にすべてを託そうとしたのかもしれず、さしたる展望は感じられない。
老齢の時政に長期的な展望がないとはいえ、御家人の反発を招いたことは、幕府にとって大きなマイナスだった。時政の娘婿の平賀朝雅も不気味だった。
そのような事情から、政子・義時姉弟は時政の追放を企てた。牧の方の陰謀(実朝の暗殺、朝雅の新将軍擁立)などは、それこそでっち上げだった可能性がある。
政子・義時姉弟は時政を伊豆に追放することで、再び幕府は安泰を取り戻したのである。