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【深掘り「鎌倉殿の13人」】畠山重忠の謀反の計画は、牧の方のでっち上げだった。その真相を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
牧の方を演じた宮沢りえさん。(写真:Shutterstock/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠と北条一族との対立が先鋭化した。重忠はいかにして討伐の対象となったのか、その経緯を詳しく掘り下げてみよう。

■険悪になった畠山重忠と北条時政の関係

 建仁3年(1203)の比企の乱で比企能員ら比企一族が滅亡すると、北条時政は武蔵国に触手を伸ばした。これに強く反発したのは、武蔵国に基盤を持つ畠山重忠だった。重忠の妻は時政の娘だったが、両者の溝は深まる一方だった。

 元久元年(1204)1月になると、京都にも重忠と時政の関係の悪化が伝わっていた。2人は合戦となり、大江広元が殺害されたという誤報が報じられていたのである。

 同年11月、時政らは新将軍となった源実朝の妻(坊門信清の娘)を迎えるため上洛した。その際、同行した平賀朝雅(時政の娘婿)と畠山重保(重忠の子)が口論となった。

 その後、時政は重忠・重保父子を勘当したが、翌元久2年(1205)1月に千葉成胤が両者の間を取り持ち、和解に至った。しかし、事はこれで収まらなかったのである。

■重忠の謀反

 同年6月21日、朝雅は牧の方に「重保から悪口を言われた」と讒言した。ただちに牧の方は、時政にこの一件を報告し、「これは重忠・重保父子の謀反の意のあらわれである」と主張した。

 時政は子の義時・時房兄弟に相談すると、2人は「重忠が謀反を起こすことはない」と述べ、討伐を差し控えるよう申し述べた。重忠が謀反を起こすとの確証がなかったのだ。

 しかし、大岡時親(牧の方の兄)から「牧の方が継母ゆえに反対しているのではないか」と勘繰られ、結局、義時らは重忠・重保父子の討伐に同意せざるを得なくなった。

 同年6月22日、畠山氏討伐の軍勢が由比ガ浜に出陣したが、何も知らない重保も鎌倉から由比ガ浜を目指した。そこで、重保は自らが討伐の対象となったことを知ったが、時はすでに遅く、ただちに討たれてしまった。

 幕府の軍勢は、そのまま重忠の討伐に向かった。両軍が激突したのは二俣川(横浜市旭区)だった。重忠は寡兵を率いて、潔く幕府の大軍に立ち向かったが、ついに討ち取られ、無念の最期を迎えたのである。結局、重忠・重保父子には、謀反の意はなかったのは疑いない。

 帰陣した義時は時政に対して、重忠・重保父子に謀反の意がなかったことを告げた。重忠・重保父子の軍勢は乏しく、とても謀反を起こそうとしたと思えなかったのだ。その直後、重忠をそそのかしたとして、稲毛重成父子、榛谷重朝父子が三浦義村に討たれた。

■まとめ

 こうして畠山重忠の乱は鎮圧され、その所領は出陣した将兵に与えられた。重忠に謀反の意はなく、それは牧の方によるでっち上げだった。

 この事件をきっかけにして、時政・牧の方夫妻と政子・義時姉弟の関係は、完全に決裂するのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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