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【深掘り「鎌倉殿の13人」】非業の死を遂げた仁田忠常は何者だったのか? 改めて考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
箱根山麓から見た富士山(静岡県三島市・函南町)。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の32回目では、仁田忠常が討たれてしまった。いったい仁田忠常とは何者だったのか、改めて詳しく掘り下げてみよう。

■仁田忠常とは

 高岸宏行さんが演じる仁田忠常は、重要な登場人物の一人である。その本拠は、伊豆国仁田郷(静岡県函南町)だった。忠常の生年は不詳で、その前半生はほとんど不明である。

 治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、忠常はただちに馳せ参じたので、厚い信頼を獲得することに成功した。忠常が病気で重篤になった際、頼朝が見舞いに訪れたほどである。

 以後、忠常は平氏追討に出陣して大いに軍功を挙げた。建久4年(1193)に曽我祐成・時致兄弟が父の仇の工藤祐経を富士野で討ち復讐すると、忠常は兄の祐成を討ち取った。さらに大きな信頼を勝ち取ったはずである。

■比企の乱と忠常

 建仁3年(1203)に比企の乱が勃発する。比企の乱とは源頼家が重篤になったので、北条時政の主導により、将軍家の遺領を次のように決定したことが引き金になった。

①家督および日本国総守護職と東国28カ国の地頭職を一幡(頼家の嫡子)に譲る。

②西国38カ国の地頭職を千幡(のちの実朝)に譲る。

 比企能員は頼家の外戚だったので、この決定に大いに不満を抱いた。能員は、一幡にすべてを譲るのが筋だと考えたのだ。

 しかし、先に手を打ったのは時政だった。時政は忠常と天野遠景に対して、首謀者の能員を討つように命じた。能員らが討たれたので、比企一族は事実上滅亡したのである。

■忠常の最期

 能員の討伐直後、頼家は時政らの策謀の全貌を知った。頼家は和田義盛と忠常に時政を討つよう命じたが、義盛はすべてを時政に密告したのである。このことが忠常を窮地に陥れた。

 一方、忠常は弟ともども謀反の嫌疑を掛けられ、疑いを晴らす間もなく、加藤景廉によって討伐された。忠常らが討滅され、仁田一族は終焉を迎えたのである。

■まとめ

 頼家と時政の間で、忠常がいかなる思いで対処したのかはわからないことが多い。それが判断ミスだったのか、今となっては不明である。忠常の死によって、頼家自身も悲惨な最期を迎えるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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