【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条泰時は、源頼家から改名を強制されたのか?その真相
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、北条泰時が源頼家から改名を迫られる場面があった。この話が事実なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条泰時と源頼朝
寿永2年(1183)、北条泰時は義時の長男として誕生した。幼名は、金剛である。ドラマでは母が八重に設定されており、そのような説も提唱されているが、誤りである可能性が極めて高い。
通説では、側室の阿波局(出自不詳)が泰時の母だったと指摘されている。しかし、阿波局の史料は非常に乏しく、その生涯についてはほとんど不明である。謎の女性といえよう。
建久5年(1194)、泰時は源頼朝を烏帽子親として元服し、頼朝から諱(いみな:実名)の一字を与えられて、「頼時」と名乗った。「時」の字は、北条家代々の通字である。
烏帽子親とは、元服のときに立てる仮の親のことである。子のほうは、烏帽子子と呼ばれた。つまり、頼朝と泰時は、仮とはいえ親子関係を結んだことになる。
烏帽子親になる人物は、誰でもよいわけがなく、将来を託すことができる有力者でなくてはならなかった。また、頼朝が泰時に諱の一字を与えたことは、北条氏にとっても重要なことだった。
むろん、北条氏の強い意向があり、頼朝に烏帽子親を依頼したのは間違いないだろう。頼朝は泰時の烏帽子親になることで、北条氏との強力な関係を内外に示したのである。
■頼時から泰時への改名時期
ドラマでは、源頼家が泰時に対して、「頼時から泰時に改名せよ」と強制的に改名させていた。頼家からすれば、「頼」の字は父・頼朝の諱の一字でもあるので、どうしても許せなかったのだろう。
「泰」の字に関しては、ドラマで頼家が「天下泰平の泰の字を名乗れ」と言っていたが、これもまた確かめようがない。
とはいえ、これはあくまでドラマ状の創作に過ぎず、実際に頼家の命令によって、頼時から泰時に改名したという記録は残っていない。端的に言えば、泰時が改名した理由は不明である。
『吾妻鏡』正治2年(1200年)2月26日条の記事によると、「江間大(太)郎頼時」と記載されている。そして、『吾妻鏡』建仁元年(1201年)9月22日条の記事には、「江馬太郎殿泰時」と書かれている。
つまり、約1年7ヵ月の間に、頼時から泰時に名を改めたのである。とはいえ、繰り返しになるが、改名の理由については書かれておらず、もはや真相を知る由もない。
■まとめ
あえて改名の理由を考えるならば、頼朝の死後、頼家に配慮した泰時が自主的に名を改めた可能性もある。さすがに頼朝の「頼」の字を自身の名に用いたのは、いかに授けられたものとはいえ、頼家に対する遠慮があったのかもしれない。
いずれにしても本当に理由はわからないので、今後の課題といえるであろう。