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【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛が「13人の合議制」に加えられたワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和田義盛は侍所の別当を務めた。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では13人の合議制が成立し、その1人に和田義盛が加えられた。義盛はいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■和田氏と和田義盛

 久安3年(1147)、和田義盛は杉本義宗(三浦義明の子)の子として誕生した。和田氏の遠祖は、三浦一族の三浦義明である。義明の孫だった義盛は相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)に本拠を置き、「和田」を名字とする。

 治承4年(1180)8月、源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、義盛も三浦一族とともに味方した。頼朝は平兼隆を討ち取ったものの、続く石橋山の戦いで大庭景親に敗れた。

 頼朝は逃亡に成功したが、三浦一族と義盛は本拠の三浦半島に戻らざるを得なかった。その帰途、三浦一族と義盛は、不運にも平氏方の畠山重忠と由比が浜(神奈川県鎌倉市)で遭遇した。義盛は重忠の軍勢に名乗りを上げたので、合戦は避けられない状態になった。

 しかし、義盛の弟・義茂は状況を十分に把握しないまま、突如として重忠の軍勢に攻撃を仕掛けたので、両軍は交戦状態に入り、勝敗が決しないままそれぞれの兵は退却した。その後、重忠は頼朝方に加わったのである。

■侍所別当になった義盛

 衣笠城を脱出した三浦一族と義盛は、安房国猟島(千葉県鋸南町)で頼朝と合流した。その際、義盛は頼朝に「父や子孫が死んでも、頼朝に会った喜びはこの上ない。ぜひ頼朝に天下を取ってほしい」と述べたあと、「侍所の別当に任じてほしい」と懇願したのである。

 義盛が頼朝に懇願した理由は、かつて平氏の家人だった伊藤忠清は、平清盛から「坂東八ヵ国の侍の別当」に任じられていた。義盛はそれをうらやましく思い、いつも八幡大菩薩に「自分も侍所別当に任じられたい」と祈願していたのである(『平家物語』)。

 同年、義盛は侍所別当に就任し、御家人を統率することになった。念願が叶ったわけだが、先の『平家物語』の逸話に関しては、にわかに史実か否か確定し難い。

 義盛は源平の争乱で大いに軍功を挙げ、打倒平家の立役者となった。文治5年(1189)に奥州征伐が行われると、義盛は梶原景時とともに藤原泰衡の首実検を行った。

 建久元年(1190)に頼朝が上洛すると、義盛は左衛門尉に任じられた。その2年後、義盛は梶原景時に侍所別当の地位を譲ったが、依然として強い存在感を示したのである。

■むすび

 建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなると、義盛は13人の合議制の1人に加えられた。そもそも義盛は侍所別当を務め、その後も大活躍した。その辺りについては、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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