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【深掘り「鎌倉殿の13人」】「13人の合議制」に加えられた八田知家の大逆転劇

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
八田知家を演じる市原隼人さん。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では13人の合議制が成立し、その1人に八田知家が加えられた。知家はいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■八田氏と八田知家

 八田氏は、下野の名族宇都宮氏の流れを汲む名族である。知家は宗綱の四男として誕生したが、生年は康治元年(1142)、天養元年(1144)の2説ある。なお、知家は源義朝(頼朝の父)の子であるという伝承がある。

 宗綱が八田を姓としたのは、常陸国八田(茨城県下館市八田)に本拠を定めたからだった。保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、知家は義朝に従って出陣し、大いに軍功を挙げた。その姿は、『保元物語』で確認することができる。

■源頼朝と知家

 治承4年(1180)、源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、ただちに頼朝のもとに馳せ参じた。同年、知家は頼朝から下野国茂木郡の地頭職を安堵された。知家は、貴重な戦力とみなされていたのである。

 寿永2年(1183)、知家は野木宮合戦に出陣し、小山朝政とともに志太義広(頼朝の叔父)を討伐した。大いに軍功を挙げた知家は、さらに頼朝から信頼を勝ち取った。

 元暦元年(1184)、平家追討の動きが本格化すると、知家は源範頼(頼朝の弟)に従って出陣した。ところが、知家は迂闊なことをしてしまう。

■知家の大失態

 出陣の途中、知家は頼朝に無断で、右衛門尉に任官した。実は、義経も無断で任官していた。頼朝は許可なく、御家人が朝廷から任官することを厳禁していた。これが頼朝の逆鱗に触れたのは言うまでもない。

 翌年、怒りに打ち震えた頼朝は、「九州下向の途中、京都で任官されるなど、駄馬が途中で道草を食うようなものだ」と、無断で任官した知家ら御家人を激しく罵倒した。

■知家の大逆転劇

 文治5年(1189)の奥州征伐の際、知家は千葉常胤とともに東海道大将軍に任じられ、大いに軍功を挙げた。知家は態度を改めて、復活したのである。

 建久4年(1193)に曽我兄弟の仇討ち事件が勃発すると、知家は従兄弟で常陸に本拠を置く多気義幹に謀反の嫌疑を掛けて陥れ、常陸守護に就任した。こうして知家の威勢は、ますます大きくなったのだ。

■むすび

 建久10年(1199)1月に頼朝が没すると、知家は13人の合議制の1人に加えられた。それは、知家のこれまでの頼朝への貢献に拠るところが大きかった。

 その後も知家はさまざまなシーンで活躍するが、その辺りについては、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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