【深掘り「鎌倉殿の13人」】なぜ梶原景時と和田義盛は、侍所別当をめぐって争ったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では、梶原景時と和田義盛が侍所別当をめぐって争っていた。なぜ2人は争ったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■侍所とは
そもそも侍所がどのような機関なのか、改めて考えてみよう。平安時代、侍所は院・親王・摂関家などで家務を担当した機関であり、警護を担った侍の詰所のことも意味した。
源頼朝が打倒平家の兵を挙げた治承4年(1180)、侍所は設置された。その職務内容は、鎌倉市中の警護、御家人の統制、刑事裁判、守護・地頭を管轄するなどした。のちに、政所、問注所とならぶ鎌倉幕府の重要な機関となった。
政所、問注所のトップは、京都から招かれた下級貴族が任じられたが、侍所は東国の有力な豪族が担当した。初代の侍所別当(長官)は和田義盛、所司(次官)は梶原景時がそれぞれ任じられた。義盛が別当に任じられたのには、有名な逸話がある。
同年、頼朝は石橋山の戦いに敗れ、安房国へと逃亡した。その際、義盛は頼朝に「父や子孫が死んでも、頼朝様に会った喜びはこの上ない。ぜひ頼朝様に天下を取ってほしい」と述べ、続けて「その際には自分を侍所の別当に任じてほしい」と懇願した。
義盛が頼朝に懇願した理由は、平氏の家人の伊藤忠清が平清盛から「坂東八ヵ国の侍の別当」に任じられていたことをうらやましく思い、八幡大菩薩に自分も任じられたいと祈願していたことにある(『平家物語』)。義盛の念願は叶ったが、『平家物語』の逸話は史実か否か不明である。
■梶原景時と和田義盛の争い
治承4年(1180)以来、義盛は侍所別当を務めていたが、一つの事件が起こった(以下『吾妻鏡』)。建久3年(1192)、景時は「一日だけでもいいから、侍所別当を名乗らせてほしい」と義盛に懇望した。当時、景時は次官たる所司だった。
頼まれた義盛は、「服暇」(近親者が死去したとき、一定期間喪に服すこと)だったこともあり、景時の申し出に応じた。しかし、景時は策略を巡らして、侍所別当の座に居座ったという。頼朝の許可があったのか否かは、不明である。
正治2年(1200)1月、失脚した景時は討伐された。その直後の同年2月、義盛はもとのとおり侍所別当に復帰したのである。つまり、景時は義盛を騙して、8年もの間、侍所別当の座に居座ったことになる。
■むすび
景時が侍所別当に就任した経緯や背景については、『吾妻鏡』に詳しく書かれているわけでもない。常識的に考えると、いくら懇願されたとはいえ、義盛が幕府の重職である侍所別当を景時に譲ったとは考えにくい。
そう考えるならば、将軍である源頼家の差し金であると考えざるを得ないだろう。