【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家が後継者に!ついに成立した「13人の合議制」とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では、ついに13人の合議制が成立する予定だ。13人の合議制とはいかなるものなのか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条時政の思惑
建久10年(1199)1月、源頼朝が亡くなった。普通に考えると、嫡男の頼家が後継者となるべきだったが、そうは簡単にことは運ばなかった。
当時、頼家は数え年でまだ18歳という青年で、頼朝のようなカリスマ性はなく、政治手腕はまったくの未知数だった。
『吾妻鏡』は頼家の性格などについては辛口で、その専横ぶり、愛憎の偏頗が強調されている。むろん、それは『吾妻鏡』の編纂に北条氏が関与したからだろう。のちに頼家は北条一族によって、悲惨な運命をたどった。
頼家の乳母を務めたのは、比企能員ら比企一族が主たる面々だった。頼朝の挙兵以来、舅として支えた北条時政は、比企一族が幕府運営の主導権を握るのではないかと危惧した。同時に時政は、未熟な頼家が政治の専決を行うことに不安を感じていた。
そこで、時政は頼朝の死で動揺する御家人を鎮め、幕府の信用をこれまで同様に維持するため、頼家や能員の発言権を抑えようと考えた。こうして政子と相談し、誕生したのが13人の合議制である。
■13人の合議制とは
13人の合議制は、有力な御家人13名(大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛)で構成された。
時政は訴論については、この13人で話し合い、採決することにしたのである。メンバーの顔触れから明らかなように、京都の貴族出身者と東国の豪族が絶妙なバランスで選ばれていた。時政は13人の合議制を採用したうえで、自らが主導権を握ろうとしたのだろう。
頼朝の死後、残った御家人はカリスマ的な存在だった頼朝を除き、独裁専制を容認できなかった。それは、子の頼家であってもだ。むしろ、頼家を戴きつつも、訴訟を自らの手で解決したかったに違いない。時政の思惑もあったが、御家人たちが望んだものでもあった。
13人の合議制を採用することは、すなわち将軍権力の弱体化を意味した。結果として、頼家の立場は弱くなり、以後の政権でたびたび問題が生じることになったのだ。
■むすび
13人の合議制は、頼朝独裁政権後の政治運営を御家人たちの手に取り戻したものといえる。同時にそれは、時政、能員を含め、有力御家人の政争のタネとなったのも事実である。その点については、追々取り上げることにしよう。