【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝を支えた大江広元と政所の役割
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鎌倉幕府の組織がほとんど取り上げられていない。今回は大江広元と政所について、詳しく掘り下げてみよう。
■大江広元と公文所
大江広元は、久安4年(1148)に誕生した。広元のもともとの姓は「中原」姓で、大江に改姓したのは建保4年(1216)のことである。広元の養父は中原広季だったが、大江氏の実父を嘆いて、大江姓を名乗ることにしたという(『吾妻鏡』)。
広元は、朝廷で外記(げき)を勤めていた。外記とは太政官少納言のもとで、内記(ないき)が作成した詔勅の草案をチェックしたり、奏文を作成したりするほか、行事や儀式の実務を担当した。広元は下級貴族とはいえ、朝廷の実務に通じていたので、源頼朝から重用されたのである。
寿永2年(1183)7月以降、文筆の才能を見込まれた広元は鎌倉に下り、公文所の別当(長官)に任じられた。公文所とは、政務や財務のほか、公文書の作成や管理、訴訟に関わる重要な役所だった。広元が初代別当になったのは、その手腕が見込まれたからだ。
中原親能(広元の弟)、二階堂行政、足立遠元、藤原邦通の4人が、公文所の寄人(よりゅうど:職員)として加わった。親能と行政は下級貴族の出身で、遠元は武家出身、邦通は出自未詳ながら有職故実や文筆に優れていたという。
■政所の設置
鎌倉幕府に政所が設置されると、広元は別当(長官)に任命された。令(次官)を務めたのは、二階堂行政である。その主たる業務は、幕府の財政の管理、鎌倉市中の非御家人・雑人の訴訟だった。
幕府の経済基盤は、関東御領(将軍家の直轄領:主に平家没官領)と関東知行国(将軍家に与えられた知行国)である。当時の関東知行国は、三河・駿河・武蔵にはじまり、さらに伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予が加わった(伊予のみが西国)。
政所は、広大な関東御領と関東知行国を管理するために設けられた。設置された年は、文治元年(1185)が有力視されている。
財政機関だった政所の機能が強化されたのは、建久2年(1191)のことである。政所は関東御領と関東知行国の管理に加え、諸国の地頭の補任状の発給、そして補任の状況を把握するに至った。そして、裁判の判決文を発給するに至ったのである。
政所は鎌倉幕府の要の役所であり、広元は初代別当として、大いに辣腕を振るったのである。
■むすび
いかに鎌倉幕府が頼朝の独裁的な体制とはいえ、1人ですべての業務をこなすわけにもいかず、有能かつ経験豊富な職員が必要だった。広元は、まさしく政所の別当にふさわしい人物だった。
頼朝は政所を設置することにより、その政治基盤、財政基盤を固めたのである。