【深掘り「鎌倉殿の13人」】金剛(北条泰時)が読んでいた『貞観政要』とは、どんな書物なのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の24回目では、金剛が『貞観政要』を読んでいた。『貞観政要』とはいかなる書物なのか、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。
■『貞観政要』とは
ドラマのなかでは、まだ少年の金剛(北条泰時)が『貞観政要』を読んでいた。金剛は、のちに『御成敗式目(貞永式目)』を制定するのだから、すでにこの頃から学問に励んでいたのだろうか。
『貞観政要』は8世紀前半に成立した、政治上の問答集である。それは、唐の太宗(598~649)と家臣との間で交わされたものである。撰を担当したのは、呉兢(ごきょう:670~749)である。
太宗は名君といわれ、国内支配に力を入れて、部民政治を行った。それは「貞観の治」と称され、泰平の世の中を作り出したことで知られている。同時に、太宗は自ら専横を振るうことを恐れ、家臣の諌言、忠言に熱心に耳を傾けたといわれている。
先述のとおり、8世紀前半に呉兢は『貞観政要』をまとめ、為政者の最高のテキストとして広く読まれた。それは中国国内にとどまらず、朝鮮、日本にも伝わったのである。
■わが国に及ぼした影響
『貞観政要』という書名は、寛平3年(891)に完成した『日本国見在書目録』にも記載されているので、少なくともそれ以前に日本に伝わったのは確実である。
『貞観政要』は単に書写されただけでなく、寛弘3年(1006)には大江匡衡が一条天皇に講義を行った。つまり、平安時代以降、『貞観政要』は帝王学の書として認識されていたのは疑いない。高倉天皇も、同書の講義を受けていたことが知られている。
鎌倉時代になると、北条政子が菅原為長に『貞観政要』の和訳をさせたという。おそらく、『貞観政要』をそのまま読むのは大変なので、そのように依頼したのだろう。なお、源頼朝の子・実朝は『貞観政要』を学んでいたが、それは母の政子の影響によるものか。
江戸時代になると、徳川家康は日本儒学の祖といわれる藤原惺窩を招き、『貞観政要』の講義を依頼した。家康は、『吾妻鏡』を座右に置くほどの学問好きで、大変な読書家でもあった。
家康は講義だけに飽き足らず、足利学校の閑室元佶(かんしつげんきつ)に依頼して、慶長5年(1600)2月に『貞観政要』の活字版を刊行させた。これが伏見版と称されるもので、林羅山の旧蔵本が国立公文書館に所蔵されている。家康は『貞観政要』を刊行することにより、広く普及させようとしたのだろう。
■まとめ
実際に、少年の金剛が『貞観政要』を読みこなしたのかといえば、やや疑問が残るところである。のちになって泰時は、明法道目安を学んだという。それは『法曹至要抄』のことで、『御成敗式目(貞永式目)』制定の際の参考にしたといわれている。