【深読み「鎌倉殿の13人」】市原隼人さんが演じる八田知家とは何者なのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の21回目では、市原隼人さんが演じる八田知家が登場した。知家は孤児となった鶴丸を北条義時に預けていたが、いったい何者なのか詳しく掘り下げてみよう。
■八田知家とは
ドラマの冒頭で市原隼人さんが演じる八田知家が登場し、孤児となった鶴丸を北条義時に預けていた。その後、知家は姿を見せなくなったが、気になった視聴者も多いことだろう。
知家は下野の名族宇都宮氏の流れを汲み、宗綱の四男として誕生した。生年は、康治元年(1142)、天養元年(1144)の2説ある。
宗綱が八田を姓としたのは、常陸国八田(茨城県下館市八田)に本拠を定めたからだった。なお、知家は源義朝(頼朝の父)の子であるという伝承があることも申し添えておこう。
保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、知家は義朝に従って出陣し、大いに軍功を挙げた。その姿は、『保元物語』で確認することができる。
■源頼朝挙兵後の知家
治承4年(1180)、源頼朝が以仁王の檄に応じて、打倒平氏の兵を挙げると、ただちに頼朝のもとに馳せ参じた。同年、知家は頼朝から下野国茂木郡の地頭職を安堵されたのだから、いかに貴重な戦力とみなされていたかがわかる。
寿永2年(1183)には野木宮合戦に出陣し、小山朝政とともに志太義広(頼朝の叔父)を討伐することに成功した。義広は頼朝に対抗心を燃やし、挙兵していたのである。
元暦元年(1184)、平家追討の動きが本格化すると、知家は源範頼(頼朝の弟)に従って出陣した。ところが、知家は迂闊なことをしてしまう。出陣の途中、頼朝に無断で、右衛門尉に任官したのである。実はこのとき、義経も無断で任官していた。
これに頼朝が激怒したのは言うまでもない。翌年、激高した頼朝は、九州下向の途中、京都で任官されるなど、駄馬が途中で道草を食うようなものだ、と激しく罵倒した。ちなみに、小山朝政も無断で任官したので、同様に頼朝の怒りを買った。
しかし、文治5年(1189)の奥州征伐の際、知家は千葉常胤とともに東海道大将軍に任じられ、大いに軍功を挙げた。一度は頼朝の怒りを買ったとはいえ、知家は態度を改めて復活したのである。
■まとめ
建久10年(1199)に頼朝が没すると、知家は13人の合議制の1人に加えられた。その辺りについては、追々取り上げることにしよう。