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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝による藤原泰衡の討伐は既定路線だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
中尊寺金色堂。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の21回目では、ドラマの冒頭で藤原泰衡が討たれた。かなり経過が省略されていたので、その経緯を詳しく掘り下げてみよう。

■奥州征伐は最初からの計画

 源頼朝に追われた弟の義経は、奥州平泉に逃れたものの、文治3年(1187)10月に「東北の王者」藤原秀衡が亡くなると、状況は一変した。秀衡の死を好機と捉え、頼朝は後継者の泰衡に義経をさしだすよう、強く圧力を掛けたのである。

 文治5年(1189)3月、泰衡は頼朝の圧力に屈し、ついに義経をさしだすことを決意。その旨を報告した。しかし、頼朝は泰衡が屈服することで、後白河法皇が「それで良し」と妥協することに不安を抱いた。

 そこで、頼朝は後白河に使者を送り、泰衡追討宣旨を賜るよう要請したのである。頼朝による泰衡追討は既定路線だった。それを知ってか知らずか、同年閏4月、泰衡は義経の館を襲撃し、自害に追い込んだのである。

 義経の首は鎌倉に届いたものの、泰衡征伐の実行は決まっており、すでに出陣準備も整っていた。今さら出陣を中止することもできず、頼朝は宣旨を待たずに出陣することを決定した。

■鎌倉軍の出陣

 奥州征伐は石橋山の戦い以降、頼朝が初めて軍勢を率いて出陣した戦いだ。その軍勢は28万4千といわれ、東国の御家人だけではなく、畿内近国や西国の武士も含まれていた。頼朝の軍勢が鎌倉を発ったのは、同年7月19日のことである。

 同年8月11日、畠山重忠、小山朝政の率いる軍勢は、藤原国衡(泰衡の兄)に攻撃を仕掛けた。国衡は散々に打ち負かされ、出羽国に逃亡しようとしたが、和田義盛によって討たれた。これを知った泰衡は、多賀城から本拠の平泉へ退却したのである。

 その後、泰衡は平泉を捨て、さらに北へと落ち延びた。その際、泰衡は平泉に火を放ったので、紅蓮の炎に包まれたという。もはや、泰衡に勝ち目はなかった。

■泰衡の最期

 同年8月26日、泰衡は頼朝に書状を送り、①義経を匿ったのは父・秀衡がやったことで無関係であること、②義経を討ったのは軍功であること、③以後は御家人に加えていただくか、死罪ではなく流罪にしてほしい、と助命嘆願をした。泰衡は逃亡生活に疲れ、許しを乞うたのだ。

 しかし、頼朝は泰衡の願いを聞き入れず、執拗な探索を命じた。泰衡は郎党の河田次郎を頼るべく、贄柵(秋田県大館市)に向かった。次郎の助力を得て、蝦夷地に逃げようとしたのだ。

 とはいえ、泰衡には過酷な運命が待っていた。同年9月3日、次郎は泰衡を裏切り殺害し、その首を頼朝のもとに届けたのである。泰衡の首は眉間に8寸の釘で柱に打ち付け、梟首されたという。なお、泰衡の首は黒漆塗りの首桶に入れられ、中尊寺金色堂に納められた。

■まとめ

 頼朝は秀衡が存命のときは、その威勢を恐れて何もできなかった。しかし、秀衡が死ぬと態度が一変し、泰衡には強い態度で臨んだ。義経の件は口実の一つに過ぎず、頼朝は最初から奥州藤原氏を滅ぼすつもりだった。未熟な泰衡は、見事にその術中にはまったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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