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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が土佐坊昌俊に命じて、義経を討たせようとした裏事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経は、危うく土佐坊昌俊に討たれそうになった。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回では、源義経が土佐坊昌俊に危うく討たれそうになっていた。頼朝が昌俊に義経の暗殺を指示した経緯について、詳しく掘り下げてみよう。

■土佐坊昌俊とは

 土佐坊昌俊は奈良の興福寺の堂衆といわれており、のちに土肥実平が京都大番役を務めた際、一緒に東国へと下向したという。源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、それに従った。

 元暦元年(1184)8月、源範頼が平家を追討すべく西国に出陣すると、昌俊も従軍した。文治元年(1185)1月、範頼が豊後国に渡海すると、その一員に昌俊の名が見える。昌俊は義経ではなく、範頼の指揮下で活動していたことがわかる。

■義経暗殺命令

 平家の滅亡後、源頼朝は弟の義経の無断任官などに業を煮やし、ついに決裂したことになった。同年10月9日、頼朝は義経の扱いについて御家人らと議論し、義経を討つことにした。

 しかし、御家人は義経追討を尻込みし、辞退するありさまだった。応じたのが昌俊だったので、頼朝は昌俊を京都に送り込み、義経を討つことにしたのである。

 頼朝の面前にあらわれた昌俊は、下野国にいる自分の老母、子供への配慮を乞うと、頼朝は同国中泉荘(栃木市)を与えると述べた。これで昌俊は、心置きなく義経討伐に出陣することができた。

 昌俊は弟の三上家季、錦織三郎、門真太郎、藍沢二郎以下、83騎の軍勢を率いて鎌倉を発った。頼朝からは、9日で上洛するよう指示されたという。その意図は不明である。

 同年10月17日、昌俊は60余騎の軍勢を率い、義経がいる室町邸に向かった。この間、20ほど軍勢が減っているが、後方に控えていたのだろうか。

 昌俊が急襲しようとしたとき、義経の家人は西河辺に逍遥しており、警固が手薄だった。昌俊は、そうした情報を事前に得ていたのかもしれない。襲撃された義経は、佐藤忠信と懸命に防戦していると、あとで叔父の行家が助太刀に馳せ参じた。

 義経らが意外なほど強力な反撃に出たので、昌俊は退却した。その後、義経は後白河法皇のもとに赴き、無事だったことを報告した。

■その後の経過

 同年10月22日、頼朝に対して、10月17日に昌俊が義経を討つことに失敗したこと、義経と行家の2人に後白河から頼朝追討の宣旨が与えられたことが報告された。その後、義経は宣旨を根拠として、頼朝追討の兵を募ったのである。

 昌俊ら3人は、鞍馬(京都市左京区)の山奥に潜んでいたところ、義経の家人に討たれた。同年10月26日、昌俊らの首は六条河原に晒されたのである。

 『玉葉』によると、義経は同年10月16日に頼朝追討の宣旨を後白河に要請したとある(『吾妻鏡』では10月13日)。義経が事前に頼朝による暗殺計画を知っていたか否かは、今となっては不明である。 

■むすび

 頼朝が鎌倉に下向した義経を腰越で追い返したのは、同年6月のことである。これで両者は決裂したと思いきや、同年8月に義経は伊予守に任官された。頼朝は、まだ義経とよりを戻そうとした可能性があろう。

 その後、頼朝は義経に対して、叔父の行家の追討を命じたが、病気であることなどを理由にして拒否した。このことが引き金となり、頼朝は義経を討とうと決心したのだろう。

 しかし、義経は昌俊を返り討ちにし、後白河から頼朝追討の院宣を得て、行家とともに挙兵したので、むしろ頼朝には義経を討つ口実ができた。以後、義経はイバラの道を歩むことになる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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