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【深読み「鎌倉殿の13人」】ついに登場!木曽義仲と巴御前はどんな人物だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲とは、どんな人物だったのか。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」13回目は、ついに木曽義仲と巴御前が登場した。義仲と巴がいかなる人物なのか、深く掘り下げてみよう。

■木曽義仲とは

 久寿元年(1154)、木曽義仲は源義賢の次男として誕生した。父の義賢は為義の次男で、義朝が兄だった。しかし、義賢は家督のことなどをめぐり、だんだんと義朝との関係が悪化していく。

 翌年8月、義朝は長男の義平をもって、義賢を武蔵国大蔵館(埼玉県嵐山町)で討たせた。孤児となった義仲は、乳母の夫の中原兼遠を頼り、信濃国木曽(長野県木曽町)で養育された。義仲からすれば、頼朝は父の仇の子だったことになる。

 治承4年(1180)、義仲は以仁王から打倒平氏の令旨を送られた。27歳だった義仲は、平氏の打倒を固く誓い、以仁王の要請に応じることにした。なお、兄の仲家は以仁王に従って出陣し、無念にも戦死した。

 義仲は頼朝に少し遅れて木曽で挙兵したが、平家に属した小笠原頼直を放逐し、まずは信濃国を手に入れた。その後も義仲の快進撃は続き、上野国まで侵攻したが、頼朝との交戦を避けるため、いったん信濃国に戻った。

 養和元年(1181)、義仲は平家方の城助茂を横田河原(長野市)で打ち破ると、その勢いで越前水津(福井県敦賀市)の平家方の軍勢を殲滅。一気に北陸方面を制圧したのである。

 義仲の率いた軍勢は約3000といわれるので、なかなかの規模だった。北陸では以仁王の遺児・北陸宮を擁立し、南信濃に侵攻した武田氏との戦いを避けた。

 このように義仲は頼朝とは一線を画しつつ、平家の軍勢に打ち勝った。しかし、寿永2年(1183)3月、義仲は長男の義高を頼朝のもとに送り、和睦を結んだのである。その背景には、義仲が頼朝と対立した二人の叔父(志田義広、源行家)を匿ったことがあった。

■巴御前とは

 巴御前は中原兼遠の娘で、義仲の愛人とされている。残念ながら、生没年は不詳である。しかし、父については諸説あり、『源平盛衰記』は中原兼遠の娘とし、『源平闘諍録』は樋口兼光の娘とする。

 義仲が打倒平氏の兵を挙げると、巴御前は義仲に従って各地を転戦した。武勇の誉れが高い女性で、強弓と太力で名を馳せた。しかし、巴御前の名は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』にあらわれず、軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』にしか登場しない。その点は、やや不審でもある。

■むすび

 敗者となった義仲は、礼儀や作法を知らない田舎者として描かれている。また、巴御前に至っては、その実在すら疑わしいとされている。いずれも文学的な脚色が強いといわれている。注目すべき二人なので、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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