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【深読み「鎌倉殿の13人」】ここが違う!北条政子による亀の屋敷への襲撃事件の真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条政子による亀の屋敷への襲撃事件は、ドラマと史実とで相違があった?(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目は、北条政子による亀の屋敷への襲撃事件が見どころだった。しかし、史実とは異なっている点があったので、その点を深く掘り下げてみよう。

■実際の襲撃事件

 最初に、史実として知られている、北条政子による亀の屋敷への襲撃事件を見ておこう。

 寿永元年(1182)8月、政子が頼家を出産するため比企谷に移り住むと、頼朝は鎌倉に亀の前を呼び出し、小中太光家の屋敷に住まわせた。その後、亀の前は飯島(神奈川県逗子市)の伏見広綱の屋敷に移った。

 出産を終えた政子は、二人の関係を知り激怒した。二人の密通を政子に知らせたのは、牧の方(時政の妻)だった。同年11月、政子は、牧宗親(牧の方の兄)に広綱の屋敷を破却するよう命じた。

 襲撃された亀の前は屋敷を逃げ出し、鐙摺(神奈川県葉山町)の大多和義久の屋敷に身を寄せた。これは、「後妻打ち(うわなりうち)」といい、夫が離縁するとき、元妻が後妻の襲撃を予告して実行する風習だった。

 一連の事態を知った頼朝は激怒し、宗親の髻を切り取るという恥辱を与えた。宗親は頼朝に土下座して謝罪したが、頼朝は決して許さなかった。

 時政の妻は牧の方だったので、宗親への仕打ちがどうしても受け入れることができず、伊豆へと引き籠もったのである。同年12月、亀の前は再び光家の屋敷に移り、頼朝の寵愛を受け続けたのである。

■相違点① 源義経は襲撃に加担していない

 ドラマによると、牧宗親が亀の屋敷を襲撃することを知った北条義時は、寝転がっていた源義経に亀の屋敷に行ってほしいと懇願した。義時が依頼した理由は、頼朝の弟の義経が立っているだけでも、襲撃への抑止力になると考えたからだろう。

 義経は義時の要請を受け、亀の屋敷の前で松明を持ち立っていた。すると現れたのが宗親である。宗親は「少しだけ屋敷を壊す」と言っていたが、これに義経が加担した。義経は配下の弁慶に指示を出し、豪快に亀の屋敷を破壊したのである。

 実は、義経は亀の屋敷の襲撃に加担していない。この件に限らず、義経をトラブル・メーカーのように描いたり、何かと梶原景時に絡ませるのは、のちの頼朝や景時との確執に向けての演出だろう。

■相違点② 上総広常は亀を預かっていない

 ドラマのなかでは、屋敷から逃げ出した亀を上総広常が預かっていた。広常は訪問した義時に対して、亀が色目を使ってくると訴え、いつまで預かればいいのかと愚痴っていた。

 実際は先述したとおり、鐙摺(神奈川県葉山町)の大多和義久が預かっていた。大多和義久は三浦義明の子だったが、その生涯については詳しくわかっていない。 

■むすび

 このように、北条政子による亀の屋敷への襲撃事件については、史実とは相違がある。大河ドラマはフィクションなんだから、これくらいの遊び心があってもいいだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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