【深読み「鎌倉殿の13人」】北条義時と北条家の家督をめぐる意味深な裏事情
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、北条義時自身が家督を継がなくてもよいような発言をしていた。これはいったいどういうことなのか、その事情を深く掘り下げてみよう。
■ドラマの内容
ドラマの冒頭で源頼朝以下、北条家の面々などが集まり、食事をしていると、義時は江間の姓を名乗ることになったと言う発言があった。しかも、義時自身は北条家の家督を継がなくてもよいとまで言うではないか。おまけに、牧の方は自分と時政の子があとを継ぐかもしれないとまで。
ここまで来ると、話は穏やかではない。もう少し、この辺りの事情を探ることにしよう。
そもそも時政の嫡男としては、宗時がいた。普通であれば、彼が北条家の家督を継ぐ予定だった。しかし、宗時は治承4年(1180)8月の石橋山の戦いでの敗戦後、逃亡する途中で平家方の軍勢に討たれた。宗時の死により、義時に家督が回ってくるのは普通である。
■義時の血筋
ところで、宗時と義時の母は伊東祐親の娘であった。時政は伊東祐親と深い関係にあったが、結局は敵対して、祐親を討つことになった。通常、敵対関係になれば、娘と離縁するのが習わしだった。時政が離縁したか不明であるが、のちに牧の方と結ばれた。
となると、宗時は亡くなったものの、義時は母が祐親の娘であるがゆえ、立場的にどうだったのか非常に気にかかる。当時の史料に、義時の立場がまずかったとの記述はない。
『吾妻鏡』によると、当時の義時は江間を姓として書かれている。まさしく「江間小四郎」である。江間とは、現在の静岡県伊豆の国市の地名で、義時の邸宅があった場所である。
文治元年(1189)、時政と牧の方の間に政範が誕生した。母親の筋としては、牧の方のほうが良家なので、政範が嫡男だったと考える向きもある。
政範は16歳になったとき、従五位下に叙された。この地位は、26歳も年長だった義時と並ぶものだった。政範が家督後継者の有力候補だった所以である。
義時は、別に頼朝から嫌われていたわけではない。寿永2年(1182)11月、牧宗親(牧の方の兄)が頼朝の愛人・亀の屋敷を襲撃したので、頼朝は宗親の髻を切る恥辱を与えた。
すると、時政は縁者が恥辱を与えられたので、即座に伊豆へと帰った。しかし、義時は伊豆に帰らなかったので、頼朝から賞賛されたほどである。
■むすび
元久元年(1204)11月、使者として上洛した政範は、京都で急死した。まだ16歳だった。当時、時政が存命だったので、本当に政範が家督を継ぐ予定だったのかわからない。ただ、政範が死んだことにより、義時にチャンスが巡ったのは事実である。