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【深読み「鎌倉殿の13人」】流罪となったなかで、ただ1人許されなかった俊寛

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛は、厳島で藤原成経と平康頼だけを許した。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には「鹿ヶ谷の陰謀」が取り上げられていなかったので、昨日、経緯を書かせていただいた。今日は、流罪となったなかで、ただ1人許されなかった俊寛を取り上げることにしよう。

 「鹿ヶ谷の陰謀」については、こちら

■赦免を願う日々

 流罪とは、本貫地(この場合は京都)に帰ることができない永久追放刑であった。しかし、藤原成経と平康頼の2人は決してあきらめず、再び京都の地を踏むべく努力した。

 成経と康頼は熊野三所権現を祀り、厚い信仰心を示していた。2人はそれだけでなく、千本の卒塔婆(死者の供養のため墓石の後ろに立てる細長い板)に歌を書き記し、海に流した。

 2人が卒塔婆に書いたのは、望郷の思いを込めた歌であった。それは赦免を願う内容のものであり、のちに思わぬ効果を発揮することになる。

■何もしなかった俊寛

 一方の俊寛は、そのような2人を冷ややかな目で見ていたのかもしれない。俊寛は法勝寺の執行を務めた高僧で、熊野信仰とは無縁だった。そうしたプライドは、流人になっても失わなかったようである。

 俊寛は硫黄島の長浜川の上流に粗末な庵を結び(俊寛堂)、成経と康頼とは距離を置いて独居生活を営んだ。2人は俊寛に対して、「心たけく、おごれる人」と評価した。

 それは「心が強く、思いあがった態度の持ち主だ」という意味になろう。赦免を願う2人にとって、俊寛の行動は理解できなかったかもしれない。

■成経の縁者

 成経については、縁者の平教盛が熱心に赦免活動をしていた。というのも、成経は次に示すとおり、平氏一門と強い姻戚関係を結んでいた。

①成経の妻―平清盛の姪。

②成経の叔母―平重盛(清盛の嫡男)の妻。

③成経の姉妹―平維盛(重盛の嫡男)の妻。

 康頼はどうなのか。康頼は後白河の院近臣であったが、かつては清盛の甥・保盛に仕えていた。こうした条件は、2人に有利に働いたようだ。

■運命を変えた卒塔婆

 成経と康頼の流した千本の卒塔婆のうち1本は、運よく安芸国厳島(広島県廿日市市)に流れ着いた。これを目にした清盛は、強く心を打たれて2人を許すことを決意した。

 治承2年(1178)、清盛は娘の中宮徳子(夫は高倉天皇)の安産を祈願した際、恩赦を行って2人の帰還を許したのである。

■許されなかった俊寛

 残念ながら、恩赦のリストのなかに俊寛は入っていなかった。俊寛は謀議の中心人物であると認識され、清盛は許さなかったのだ。あるいはその鼻っ柱の強さが気に食わなかったのだろう。

 恩赦が決まると、船が鬼界ヶ島に到着した。許されたのは、成経と康頼の2人だけである。

 恩赦のなかに自分の名前がないことに気付いた俊寛は、成経にせめて九州まで連れて行ってほしいと懇願するが、もはやどうしようもなかった。安易に途中まででも乗船させると、あとの処罰が予想される。

 船が出発すると、俊寛は腰まで海につかりながら、同乗させて欲しいと諦めなかった。その懇願する姿は、人々の憐れみを誘ったという。しかし、無断で乗船が許可されるわけもなく、1人だけ俊寛は取り残されたのである。

■むすび

 成経と康頼の2人は、平氏や後白河の縁によって帰京が叶った。一連の俊寛の物語は、芥川龍之介『俊寛』などで小説化されているので、ぜひご一読のほどを。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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