昨日の1月17日(天正8年・1580)は三木城が羽柴(豊臣)秀吉の軍勢によって落とされ、城主の別所長治ら一族が切腹に追い込まれた日である。その最期の様子を別所長治と別所賀相に焦点を当てて考えてみよう。

■三木城の落城

 天正6年(1578)2月以降、別所長治は三木城(兵庫県三木市)に籠って羽柴(豊臣)秀吉に徹底抗戦を挑んだ。当初、長治が優勢だったが、徐々に形勢は逆転した。

 秀吉が採用した作戦は、三木城の周囲に付城を築き、兵糧の搬入ルートを断つことだった。秀吉の兵糧攻めによって、三木城の城兵は飢えに苦しむことになった。

 天正8年(1580)1月6日になると、戦局は一気に動いた。かねて秀吉は、三木城から煙が出ないので不審に思っていた。

 煙が出ないということは、食事を作っておらず、兵が衰弱していると考えた。ここから秀吉は、一気に三木城に攻め込んだ。

 三木城から60mほど離れた宮山の構が秀吉軍に乗っ取られ、同城を守備した別所友之は三木城本丸へと逃れた。さらに1月11日には、南の構が切り崩されている。

 秀吉軍の勢いは止まらず、別所友之(長治の弟)の鷹尾城と別所賀相(よしすけ:長治の叔父)の新城を攻略し、鷹尾城には秀吉が、新城には羽柴秀長(秀吉の弟)が入城した(「反町文書」など)。

 この時点で、別所氏の敗北は確定したといってよい。別所氏には毛利氏からの援軍が期待できず、もはや抵抗する術はなかったのだ。

■別所一族の切腹

 秀吉方に与していた重棟は、三木城内の長治、賀相、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承した。1月17日のことである。

 別所一族の切腹の現場は、凄惨なものであった。長治は3歳の子を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。友之も同じである。

 そして、長治は改めて城兵の助命を嘆願すると、腹を掻き切ったという。介錯は家臣の三宅治職が務めた。長治の腹は十文字に引き裂かれ、内臓が露出していたと伝えられている。

 友之以下、その女房、賀相の女房らも自ら命を断った。長治ら別所一族の潔い散り方は、後世にまで伝えられ、今も地元の人によって顕彰されている。

■潔くなかった賀相

 しかし、賀相は切腹を了承したにもかかわらず、切腹をせずに城に火をかけようと主張した。最後まで、できる限りの抵抗を試みたのだ。

 賀相は切腹の約束を覆そうとしたので、将兵は賀相が蔵に逃げ込んだところを討ち取ったという(『播州御征伐之事』)。ある意味で、みっともない最期だった。

 現在、賀相が亡くなった経緯に対して、疑義が提示されている。たとえば、賀相は将兵に討たれたことになっているが、それは長治をそそのかした「佞人」にふさわしい最期として創作されたという。

 実のところ、長治に織田信長からの離反を勧めたのは、賀相だった。『播州御征伐之事』は、秀吉の配下の大村由己の作である。秀吉に逆らった者は、不名誉な描き方をされた可能性が高い。

 ちなみに「書写山十地坊過去帳」の記述では、賀相の死因は自害となっており、現在ではこちらが正しいと考えられている。

■むすび

 長治は城兵の助命を嘆願し、あえて一族とともに自害したというが、秀吉は約束を守らず皆殺しにしたという。この点については、改めて考えることにしたい。