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【深読み「鎌倉殿の13人」】平氏政権を樹立した平清盛は、白河法皇のご落胤だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛は、白河法皇のご落胤だった?(提供:アフロ)

 1月9日、待望の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がようやくはじまった。番組の最後に松平健さん演じる平清盛が登場していたが。清盛が白河法皇のご落胤という説は事実なのだろうか。

■平清盛とは

 元永元年(1118)、平清盛は忠盛の子として誕生した。父の忠盛は武人として名を馳せ、海賊追討使として山陽・南海両道の海賊を討伐するなど大活躍した。

 以来、忠盛は白河・鳥羽の両上皇から厚い信頼を得て、重用されるようになった。長承元年(1132)、忠盛は得長寿院を造営したことが評価され、内昇殿を許された。

 こうして忠盛は、平氏繁栄の基礎を築いたのである。

 仁平3年(1153)、忠盛は病没した。忠盛の死後、家督を継承して平氏一門を率いたのが清盛である。清盛は鳥羽上皇に仕えて、頭角をあらわしていく。

 保元元年(1156)、後白河上皇と崇徳上皇の対立に端を発した保元の乱では、後白河方に与して勝利に導いた。

 平治元年(1159)の平治の乱では、源義朝を打ち破り、清盛は武門の棟梁として確固たる地位を築いた。

 その後、清盛は快進撃を続ける。永暦元年(1160)、清盛は正三位・参議に叙位任官され、武家として初の公卿(三位以上)になった。

 仁安2年(1167)には、ついに太政大臣に上り詰めたのだ。

 この清盛の大出世には、何か重要な秘密があるのだろうか?

■清盛出生の謎

 清盛の父は忠盛で間違いないのだが、母については不明な点が多い。もっとも有力な説としては、白河法皇に仕えていた女房という説がある。

 では、この女房とは、どのような来歴を持つ女性だったのだろうか。一説によると、この女房は白河法皇の寵姫・祇園女御だといわれてきた。

 祇園女御は、生没年や素性がわかっていない。白河法皇がぞっこんになるほど、大変な美人だったと伝わっている。なお、忠盛の父・正盛が祇園女御に仕えていたことに注意すべきだろう。

 語り系本の『平家物語』によると、忠盛は白河の子を宿した祇園女御を妻として迎え、その結果、誕生したのが清盛だったと記している。

 これが、清盛が白河法皇のご落胤だったという説の根拠である。

 しかし、『仏舎利相承系図』(胡宮神社文書)によると、清盛の母は祇園女御の妹だったと書かれている。現在では、こちらの説が有力視されている。

 清盛の母が祇園女御であれ、祇園女御の妹であったにしても、2人の女性は白河法皇と深い関係があったのだから、その口添えで異常な大出世を遂げたというのである。

 とはいえ、『仏舎利相承系図』も後世に成ったもので、清盛が祇園女御の妹の子であったとの説に疑義を唱える研究者もいる。

 結論を端的に言えば、決め手になる史料的な根拠に欠けるといわざるを得ない。

■むすび

 清盛が白河法皇のご落胤だったという説は誠に興味深いが、残念ながら史実か否かは決め難い。清盛の大出世の秘密は、それ以外にあるのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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