今にはじまったことではないが、政治家の嘘には悩まされる。よく黒田官兵衛が天下を狙っていたといわれているが、それは子の長政の遺言状に書かれた大嘘である。以下、検証することにしよう。

■黒田長政の遺言状

 黒田長政は、亡くなる2日前の元和9年(1623)8月2日に遺言状を書き残した(「黒田家文書」)。まさしく最期の力を振り絞ったものであった。

 この遺言状は、家臣の栗山大膳利章と小河内蔵允正直に宛てられたものである。

 封紙の上書には「元和九年九月十五日封」とあり、栗山利章と小河正直の割印が押されている。

 長政の遺言状は、これまで編纂物などの記載によってしか知られなかったが、最近になって原本が発見された。

 紙の継ぎ目に長政の黒印が押されるなど、不審な点はないとされている。

 問題なのは、長政が黒田家の優越性を誇示するため、数多くの「架空の話」を列挙していることだ。

 その話は虚実入り混じった、実に興味深いものになっており、のちのち誤解を生むことになった。

 父の官兵衛(孝高)が「天下を狙っていた」というのも、その一つなのである。

■遺言状の内容

 この遺言状には長政のみならず、父・官兵衛の驚倒すべき仮定の軍事行動が記されている。

 それは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、官兵衛と清正が西軍に寝返ったことを想定しての話である。

 官兵衛の九州統一の話は、夢に終わったのであるが、ここでは詳しいシナリオが展開されている。

 やや長文であるが、以下に現代語訳して挙げることにしよう。

 官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ。

 そのほかの九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して官兵衛と清正が西上すれば、中国地方の軍勢も加わって10万騎になる。

 これだけの大軍が家康1人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げ入れるようなものだ(相手はすぐに潰れてしまう)。

 もし、家康が三河・遠江へ進軍し、思いがけず我々と一戦を交えても、出陣した西軍の大名は心変わりしないので、関ヶ原合戦のように家康に情けない敗北はしないであろう。

 仮にやり損なったとしても、我々は近江あたりへ引き返して諸所の城を堅固にし、島津を大坂城に籠め、長政と宇喜多が伏見を支えて家康を待てば、関東の勢力は瀬田よりも西へ進軍できないはずである。(中略)

 また、九州から官兵衛と清正が後詰すれば、日本はさておき、たとえ異国の孔明・大公・項羽・韓信が来たとしても、我らの陣に勝利を得ることはできないであろう。

 最近の日本における織田信長・武田信玄・上杉謙信らを家康に加えたとしても、ことごとく彼らが無事に引き返すことできれば十分ではないか。

 そうなれば家康の浮沈は、危ういことになったはずだ。

 官兵衛が清正と手を組んで、西軍に与した場合のシミュレーションを行っている。

 こちらのシミュレーションも、随分と都合が良すぎるし、楽観的であるといわざるを得ない。

 いずれにしても、結果は官兵衛の勝利である。たしかに、こういう展開になってしまうと、官兵衛が勝利を得るのは、自明のこととなろう。

 また、中国や日本の著名な武将と戦っても、絶対に敗北することがないという強い確信が主張されている。

 ここでは、織田信長・武田信玄・上杉謙信といった名将も、まったく相手にならないような書き振りである。

 かなりオーバーな表現であるが、官兵衛は相当な戦上手と述べたかったのである。

■まとめ

 ところで、これに似た話はないだろうか。これは、『常山紀談』の逸話として、関ヶ原合戦が勃発したとき、官兵衛が長政を見捨てて一博打(天下を狙う)しようとした話とよく似ている。

 そうなると、『常山紀談』の逸話は、単なる空想の産物ではなく、もとになる「ネタ」があったと考えざるを得ない。

 それが、長政の遺言状であった可能性は極めて高いといえるのだ。

 官兵衛の逸話を記した多くの編纂物は、こうした「ネタ」をもとにして、想像の翼を広げたということになろう。

 つまり、官兵衛が天下を狙ったという話は、長政の遺言状をベースにした大嘘なのである。