前近代の日本においては、側室を持つことが許されていた。戦国武将は側室を抱え、子孫となる子供を数多くもうけた。誕生した子供は家督を継ぐだけでなく、政略結婚の道具にもなった。以下、4人の武将のケースを紹介しよう。

注)以下、側室の数は推定である(諸説がある)。

■織田信長(1534~82)

 織田信長には正室のほかに、11人の側室がいたといわれている。正室は帰蝶(濃姫)で、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘である。しかし、信長と帰蝶の間に子供はできなかったようだ。

 信長の側室で特筆すべきは、生駒家宗の娘だろう。2人の間には、嫡男・信忠、次男・信雄、娘の徳姫が誕生した。

 うち、徳姫は松平信康(徳川家康の嫡男)と結婚したが、夫だけなく姑の築山殿とも仲が悪かったという。

 信康が自刃に追い込まれたのは、徳姫が信長にその行状を訴える手紙を書いたからともいわれている。

 信長の側室としては、三男の信孝を生んだ坂氏の娘も有名である。実は、信孝のほうが信雄よりも少し早く誕生したのであるが、坂氏の娘の身分が低かったので、信孝は三男の扱いになったといわれている。

 天正11年(1583)4月、信孝が羽柴秀吉に挙兵し失敗すると、坂氏の娘も磔にされたという。

■豊臣秀吉(1537~98)

 豊臣秀吉は正室のほかに、13人もの側室がいたといわれている。正室は「おね」(「ねね」とも)で、杉原定利の娘である。しかし、秀吉と「おね」の間に子供はできなかった。

 秀吉の側室で特筆すべきは、淀殿(浅井長政の娘)だろう。2人の間には、待望の嫡男・秀頼が誕生した。淀殿といえば、その人物像が悪しざまに描かれることが多い。

 たとえば、秀頼は秀吉と淀殿の間にできた子供ではなく、淀殿と家臣の大野治長の間にできた子であると噂になっていた。もはや真偽のたしかめようはないが、決して良い話ではない。

 あるいは、淀殿が秀頼をかわいがるあまり、大坂の陣での出陣要請を拒否したとか、マザコンぶりをうかがわせる話が伝わる。そうした話は、後世になって淀殿を貶めるための創作ではないかと考えられる。

■豊臣秀次(1568~95)

 豊臣秀次は正室のほかに、33人もの側室がいたといわれている。正室は若政所で、池田恒興の娘である。

 側室の一人・一の台(菊亭晴季の娘)は再婚であるが、若政所が没後に正室になったという説もある。

 秀次になぜ、これだけ多くの側室がいたのかは不明である。とにかく群を抜いて側室の数が多い。

 実は、秀吉は秀次に書状を送り、「女狂いについては秀吉の真似をしてはいけない」と諭している(「本願寺文書」)。

 続けて秀吉は「女性を囲うのは5人でも10人でも構わないので、外での女狂いは控えること」とまで言っている。

 要するに、「女性と遊ぶならわからないように自宅で」ということになろう。秀吉の助言が、多くの側室を迎えた理由の一つかもしれない。

 文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次に切腹を命じた。その後、秀吉は秀次の妻子を撫で斬りにし、首塚に埋葬したが、それは「畜生塚」、「秀次悪逆塚」と呼ばれたという。

■徳川家康(1543~1616)

 徳川家康は正室のほかに、21人もの側室がいたといわれている。正室は築山殿で、今川氏の家臣・関口親永の娘である。

 ところが、天正7年(1579)8月、築山殿は家康の家来によって殺害された(同時に子の信康も切腹を命じられた)。

 天正14年(1586)、家康は小牧・長久手の戦いでの和睦の証として、豊臣秀吉の妹・朝日姫を妻に迎えたが、わずか4年後に病没した。

 徳川家の家督を継いだ秀忠は、家康と側室・西郷局(西郷清員の養女)の間の子だった。次男の結城秀康以下の家康の男子は、すべて側室の子である。その数は、10人に及んだ。

 家康は若い女性を側室に迎えたことでも知られる。家康が59歳だった慶長5年(1600)、当時まだ15歳だった蓮華院(青木一矩の娘)を側室とした。このような例は事欠かない。

 ともあれ、家康は11人の男子、5人の女子に恵まれたが、そのことで政略結婚も円滑に進んだ。秀吉とは、まったく対照的である。

■まとめ

 前近代の社会において、家を維持するために側室を迎えることは、欠かせないことだった。後継者たる男子を生み育てることが家の繁栄につながり、女子は諸大名との政略結婚に活用された。

 今から考えると、誠に古臭い考え方だが、当時としてはごく当たり前のことだったのである。

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