10月30・31日に「第20回大友氏遺跡フェスタ」が大分市で催される。大友氏は耳川の戦いで島津氏に敗れ、以後は著しく衰退したが、なぜ敗北を喫したのか考えることにしよう。

■大友宗麟のこと

 豊後大友氏は鎌倉以来の名族で、宗麟の代は黄金時代だったといえる。同じ頃、薩摩などに領国を形成した島津氏も九州南部に覇権を築いた。やがて、両者が激突するのは、時間の問題だった。

 ところで、大友氏の軍師としては、角隈石宗(つのくま せきそう)なる有名な人物が存在した。

 石宗の事蹟は不明であるが、義鑑、義鎮(宗麟)の2代にわたって仕えたという。実は、石宗が耳川の戦いのキーマンだった。

 石宗は気象学、天文学、易学に該博な知識を有し、大友家で重きを置かれた。「道学兼備の人」といわれており、人物としても優れていたと伝えている。

 のちに石宗は、軍配の秘伝を大友氏の重臣・戸次鑑連の子である鎮連に伝えたといわれている。

■耳川の戦いでの敗北

 天正6年(1578)、大友宗麟は島津氏と交戦すべく、出兵を決意した。この戦いが耳川の戦いである。

 このとき、石宗は宗麟の出兵を思い止まらせようとし、次の3つの理由を提示した(『大友記』など)。

①宗麟が49歳の厄年であること。

②未申の方角への出陣は良くないこと。

③去年の彗星の光の尾が西に靡くのは凶兆であること。

 ところが、宗麟は石宗の助言を受け入れず、出陣を決定した。死の覚悟を決めた石宗は、秘伝の書物を焼き捨て出陣すると、自身も凄絶な討ち死にした。

 結果的に、大友氏は耳川の戦いで大敗北を喫し、有力な配下の武将を数多く失った。石宗の予言は、不幸にも的中したのである。

 一連のことは、『大友家文書録』にも記されている。大友家では軍配者の発言権があったのだが、このときは認められなかったのだ。

 しかし、石宗の予言は、本当に耳川の戦いの敗因だったのだろうか。

■実際のところは・・・

 実のところ、大友氏は島津氏との前哨戦で不利な戦いを強いられたので、使者を送り込んで和睦を結ぼうとしていた。しかし、これが不幸のはじまりだった。

 大友氏の家中は、主戦派と和睦派に分かれていた。つまり、家中が決して一枚岩ではなかったのだ。主戦派の田北鎮周と佐伯宗天は和睦に同意せず、島津軍に無断で攻撃を行った。

 結果、バラバラの大友軍はなし崩し的に戦闘になったため、それが敗北の要因になったという。大友軍の将兵は耳川で溺死するか、島津軍に討たれるかの大敗北を喫した。

 つまり、石宗の予言よりも、大友家中がバラバラだったことが耳川の戦いの敗因になったといえよう。