【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦で加藤清正と小西行長が激しく対立したのは、朝鮮出兵にも原因があった
関ヶ原合戦で加藤清正は東軍に属したが、その理由は石田三成ら奉行衆と対立していたからである。加えて清正は、小西行長とも仲が悪かった。その理由を考えることにしよう。
■加藤清正の注進状
加藤清正は石田三成ら奉行衆だけでなく、小西行長との関係が良くなかった。その理由は、朝鮮出兵まで遡る。行長は先導役の宗義智とともに、諸将を率いて朝鮮半島に上陸していた。
文禄元年(1592)9月、清正は注進状を肥前名護屋(佐賀県唐津市)の馬廻衆組頭の木下吉隆に送った(「尊経閣文庫所蔵文書」)。次に、注進状の概要を示しておこう。
①行長が攻略する平安道では置目(法律)・法度が徹底せず、治安に不安がある。
②清正を除く主要な部将が軍議を開き、秀吉の明への動座(出陣)は困難であると報告しているが、清正は承知していない。
③秀吉の明への動座は、清正が攻略する咸鏡道のように静謐になれば可能であるが、(行長の担当する)平安道は治安が悪いので(そのルートからの)秀吉の明への動座は受けかねる。
■注進状の内容
①については、行長の行政手腕を批判したものだ。③もその延長線上にあるもので、行長の失態を責めている印象を受ける。
②の今後の対策について、朝鮮奉行の石田三成らと黒田孝高らは、諸将を集めて軍議を開いた。しかし、清正はオランカイ(中国東北部)に出陣していたため、軍議へ出席することができなかった。
清正は自らがあずかり知らぬところで軍議が催されたことについて、強い不快感を示したのである。この一件は、清正と行長との関係が必ずしも良好でなかったことを示している。
■非難された清正
それ以前において、清正は浅野長政に対して、今後の自らの処遇について意見をしている(「浅野家文書」)。清正はオランカイ(中国東北部)に攻め込んだが、明への侵攻ルートが困難であることを悟った。
そこで、清正は平安道への攻撃を志願し、それ以外の担当を拒絶したのである。なお、平安道の攻略を担当していたのは行長だった。
こうして清正は、咸鏡道の治安を維持したことを誇示し、逆に行長の不手際をあげつらうことによって、自らの立場を際立たせようとしたのである。
しかし、朝鮮奉行の増田長盛と大谷吉継は、清正が虚偽の戦果を報告したのではないかと疑念を抱いたのも事実である。その後、清正は行長と対立したこともあり、帰国と京都での謹慎を命じられた。
その背景には、三成の意向があったと言われている。こうしたこともあり、清正は三成との関係に大きな亀裂が生じた。そして、この関係の決裂は、関ヶ原合戦にも大きく作用したのである。