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【戦国こぼれ話】直江兼続の妻・お船とは、どんな女性だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
直江兼続は執政として、上杉景勝を支えた。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「天地人」で幼少期の直江兼続を演じた加藤清史郎さんが20歳になったという。ところで、兼続といえば妻のお船であるが、いったいどんな女性だったのだろうか。

■お船と直江家

 弘治3年(1557)、お船は越後国与板城主・直江景綱の娘として誕生した。与板城は、現在の新潟県長岡市に所在した城である。

 直江景綱は越後国の戦国大名・長尾景虎(のちの上杉謙信)の重臣であり、名門の家柄の出身だった。

 しかし、景綱は景虎から「景」の字を与えられるほど重用されたが、跡継ぎの男子には恵まれず、後継者問題に悩まされていた。

 そこで、景綱は総社長尾氏から長尾藤九郎を婿として迎え、お船と結婚をさせたのである。のちに、藤九郎は直江信綱と姓名を改めた。

 天正5年(1577)に義父・景綱が亡くなると、そのまま直江家の家督を継承したのである。

■信綱の死と兼続との再婚

 天正9年(1581)、信綱は上杉家の重臣・河田長親の遺領をめぐる争いに巻き込まれ、春日山城(新潟県上越市)で毛利秀広によって殺された。

 夫を失ったお船は悲嘆に暮れていたが、まもなく主君・上杉景勝の薦めもあって、樋口(直江)兼続と再婚することとなったのである。

 この樋口兼続こそが、のちの直江兼続である。以後、兼続は景勝から重用され、上杉家の執政を担うこととなったのは周知のことである。そして、お船は兼続とともに、直江家と上杉家を守り立てて行った。

■兼続の子

 兼続とお船との間には、一男二女を授かった。長男が景明、長女が於松、次女の名は不明である。

 長男の景明は生まれつきの病弱で、両目を患っていたという。景明は大坂の陣で活躍したが、慶長20年(1615)に22才の短い生涯を終えた。

 景明に不安があったので、慶長9年(1604)、兼続は長女・於松に本多正信の次男・政重を婿養子に迎えたが、不幸にも翌年に於松は亡くなってしまう。

 政重は兼続の懇願によってしばらく直江家に残るが、のちに前田家に帰参した。結局、直江家には後継者となる子供がいなくなり、兼続の没後に改易となった。これも何かの運命だったのであろう。

 ところが、ここで思わぬことが起こった。景勝の側室は定勝を生んだものの、まもなく亡くなってしまった。

 そのような事情から、定勝は兼続夫妻が育てることになり、以後、お船は定勝と親子同様の関係となったという。

■お船の晩年

 元和5年(1619)、夫兼続の死によって、お船は落飾し貞心尼と号した。そして、直江家の江戸屋敷に住み、景勝から化粧料として3000石を与えられたのである。

 お船は源頼朝の妻・北条政子に例えられるように、上杉家中に大きな影響力を保持したといわれている。

 しかし、お船は病魔には勝つことができず、定勝の願いも空しく、寛永14年(1637)に81才で亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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