【中世こぼれ話】あのバサラ大名・佐々木導誉は、流罪になっても傲岸不遜な態度を取った
宝塚歌劇団の轟悠さんが星組公演「婆娑羅の玄孫」を最後にして、10月1日付で退団する。「婆娑羅」といえば、佐々木導誉であるが、その有名なエピソードを紹介しよう。
■佐々木導誉とは
佐々木導誉は幕政に参画し、近江国守護などを務めた経験がある大物だったが、子の秀綱ともども流罪になった経験がある。
佐々木氏は宇多源氏の流れを引く名門で、鎌倉時代以来、近江国の守護を務めてきた。導誉は室町幕府の成立にも寄与し、近江以外の守護職を兼帯するに至った。
導誉は既成の権威を無視する「バサラ大名」としても名を馳せ、芸能に通じ風流を解する人物でもあった。この導誉が事件を起こすのである。
■導誉・秀綱父子の狼藉
暦応3年(1340)10月6日の夜、佐々木導誉・秀綱は妙法院(京都市東山区)の御所に押し掛け放火すると、散々に狼藉を働いた。累代の門跡が受け継いできた重宝なども奪い取ったという(『中院一品記』)。
妙法院は天台三門跡の1つであり、当時の門跡は光厳上皇の弟・亮性法親王が務めていたので、問題は大きくなった。なぜ、2人は放火に及んだのか。
同じ日の夕刻、秀綱は妙法院の坊官と喧嘩になっていた。つまり、放火や略奪といった狼藉は、その腹いせということになろう。『中院一品記』の記主の中院通冬は、「言語道断の悪行、すこぶる天魔の所為か」と書き記しているほどだ。
■妙法院の嗷訴
怒り心頭の妙法院は山門を動員して嗷訴に及び、導誉・秀綱父子への厳しい処分を要求した。しかし、朝廷にはその権限がなく、すべては幕府に委ねられた。一方の幕府は妙法院の要求を受け入れず、導誉もまた平然として悪びれる様子はなかった。
建久2年(1191)に導誉の先祖である佐々木定綱が高島神人を殺した際、定綱は薩摩へ流罪、その次男の定重は野洲河原で斬首された。まったく雲泥の差である。
■流罪の決定
やがて、山門は神輿を入洛させるなどし、抗議行動を活発化させると、さすがの幕府も重い腰を上げざるを得なくなった。暦応3年(1340)10月26日、幕府は2人を流罪に処することに決定したのだ。
ただ、配流地が決定したのは同年12月のことで、導誉を出羽(『太平記』では上総)に、秀綱を陸奥に流すことになったのである。
■不遜な態度の導誉・秀綱父子
とはいえ、導誉・秀綱父子の態度は不遜であり、幕府も形式的に処罰をしたようである。『太平記』によると、配流地に向かう導誉は多くの若党を従え、道中では酒宴を催したり、遊女とたわむれるなど、とても罪人には見えなかったという。
特に猿の皮の靱(矢を入れる背に負った細長い箱形の道具)と腰当は、山門を挑発する行為であった。山門にとって、猿は守護神としての性格を持っていたからである。
■流罪は形式的だったのか
導誉の幕府における地位を考慮すると、簡単に処罰はできなかった。それゆえ幕府は態度を明確にしていなかったのであるが、さすがに何らかの手を打たざるを得なくなった。
実際、導誉が配流地に行ったのか疑問視されているが、それが形式的であれ、流罪に処することが重要だったのである。これにより、山門も納得せざるを得なくなったのだ。恐るべし。導誉。